佐伯は、当惑の様子であった。
私は、まだ佐伯に私の名前を教えていなかったのである。
「木村武雄、木村武雄。」と私は、小声で佐伯に教えた。太宰《だざい》というのは、謂《い》わばペンネエムであって、私の生まれた時からの名は、その木村武雄なのである。なんとも、この名前が恥ずかしく、私は痩せている癖に太宰なぞという喧嘩《けんか》の強そうな名前を選んで用いているわけであるが、それでも、こんなに気持のせいている時には、思わずふっと、親から貰った名前のほうを言い出してしまうのである。「僕を木村武雄と呼んでくれ給え。」と言い足してみたが、私は、やはりなんだか恥ずかしかった。
「木村たけお。」佐伯は、うなずいて、「木村武雄くんと一緒に来たんだがね。」
「木村たけお? 木村、武雄くんですか?」障子の中でも、不審そうに呟《つぶや》いている。私は、たまらなくなって来た。木村武雄という名は、世界で一ばん愚劣なもののように思われた。
「木村武雄という者ですが。」私は、やぶれかぶれに早口で言って、「お願いがあって、やって来たんですけど。」
「おゆるし下さい。」意外の返事であった。「初対面のおかたとは、お逢いするの
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