、なぜだか、ほっとした。救われた気持であった。浅間《あさま》しい神経ではあるが、私も、やはり、あまりに突飛な服装の人間には、どうしても多少の警戒心を抱いてしまうのである。服装なんか、どうでもいいものだとは、昔から一流詩人の常識になっていて、私自身も、服装に就いては何の趣味も無し、家の者の着せる物を黙って着ていて、人の服装にも、まるで無関心なのであるが、けれども、やはり、それにも程度があって、ズボン一つで、上衣も無し、靴も無しという服装には流石《さすが》に恐怖せざるを得なかったのである。所詮《しょせん》は、私の浅間しい俗人根性なのであろう。いまこの少年が、かなり上等のシャツを着込み、私のものより立派な下駄をはいて、しゃんと立っているのを見て、私は非常に安心したのである。まずまず普通の服装である。狂人では、あるまい。さっき胸に浮かんだ計画を、実行しても差支え無い。相手は尋常の男である。膝《ひざ》を交えて一論戦しても、私の不名誉にはなるまい。
「ゆっくり話をして、みたいんだがね。」私は技巧的な微笑を頬に浮かべて、「君は、さっきから僕を無学だの低能だのと称しているが、僕だって多少は、名の有る男だ。事実、無学であり低能ではあるが、けれども、君よりは、ましだと思っている。君には、僕を侮辱する資格は無いのだ。君の不当の暴言に対して、僕も返礼しなければならぬ。」なかなか荘重な出来である。それにも拘らず、少年は噴き出した。
「なあんだ、僕と遊びたがっていやがる。君も、よっぽどひまなんだね。何か、おごれよ。おなかが、すいた。」
 私も危く大笑いするところであったが、懸命に努めて渋面を作り、
「ごまかしては、いかん。君は今、或る種の恐怖を感じていなければならぬところだ。とにかく、僕と一緒に来給え。」ともすると笑い出しそうになって困るので、私は多少|狼狽《ろうばい》して後をも振り向かず急いで歩き出した。
 私の計画とは、計画という言葉さえ大袈裟《おおげさ》な程の、ほんのささやかな思いつきに過ぎないのである。井の頭公園の池のほとりに、老夫婦二人きりで営んでいる小さい茶店が一軒ある。私は、私の三鷹の家に、ほんのたまに訪れて来る友人たちを、その茶店に案内する事にしているのである。私は、どういうわけだか、家に在る時には頗《すこぶ》る口が重い。ただ、まごまごしている。たまに私の家に訪れて来る友人は、
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