すべて才あり学あり、巧《たく》まずして華麗高潔の芸論を展開するのであるが、私は、れいの「天候居士」ゆえ、いたずらに、あの、あの、とばかり申して膝をゆすり、稀《まれ》には、へえ、などの平伏の返事まで飛び出す始末で、われながら、みっともない。かくては、襖《ふすま》の蔭で縫いものをしている家の者に迄あなどられる結果になるやも知れぬという、けち臭い打算から、私は友人を屋外に誘い出し、とにもかくにも散策を試み、それでもやはり私の旗色《はたいろ》は呆れる程に悪く、やりきれず、遂には、その井の頭公園の池のほとりの茶店に案内するという段取りになるのであった。この茶店の床几《しょうぎ》の上に、あぐらをかけば、私は不思議に蘇生《そせい》するのである。その床几の上に、あぐらをかいて池の面を、ぼんやり眺め、一杯のおしるこ、或《あるい》は甘酒をすするならば、私の舌端は、おもむろにほどけて、さて、おのれの思念開陳は、自由濶達、ふだん思ってもいない事まで、まことしやかに述べ来り、説き去り、とどまるところを知らぬ状態に立ち到ってしまうのである。この不思議の原因は、私も友人も、共に池の面を眺めながら話を交すというところに在るらしい。すなわち、談話の相手と顔を合わせずに、視線を平行に池の面に放射しているところに在るらしいのである。諸君も一度こころみるがよい。両者共に、相手の顔を意識せず、ソファに並んで坐って一つの煖炉の火を見つめながら、その火焔に向って交互に話し掛けるような形式を執《と》るならば、諸君は、低能のマダムと三時間話し合っても、疲れる事は無いであろう。一度でも、顔を見合わせてはいけない。私は、そこの茶店では、頑強に池の面ばかりを眺めて、辛うじて私の弁舌の糸口を摘出することに成功するのである。その茶店の床几は、謂《い》わば私のホオムコオトである。このコオトに敵を迎えて戦うならば、私は、ディドロ、サント・ブウヴほどの毒舌の大家にも、それほど醜い惨敗はしないだろうとも思われるけれど、私には学問が無いから、やっぱり負けるかも知れない。私には、あの人たちほどフランス語が話せない。そこに、その茶店の床几に、私は、この少年を連れていって、さっきの悪罵の返礼をしようと、たくらんでいたのである。私を、あまりにも愚弄《ぐろう》した。少し、たしなめてやらなければならぬ。
 若い才能と自称する浅墓《あさはか》な少年
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