ょ。」と小声で言って少年は起き上り、「上衣なんて、ありやしない。」
「嘘をつけ。貧を衒《てら》う。安価なヒロイズムだ。さっさと靴《くつ》をはいて、僕と一緒に来たまえ。」
「靴なんて、ありやしない。売っちゃったんだよ。」立ちつくし、私の顔を見上げて笑っている。
私は、異様な恐怖に襲われた。この目前の少年を、まるっきりの狂人ではないかと疑ったのである。
「君は、まさか、」と言いかけて、どもってしまった。あまりにも失礼な、恐しい質問なので、言いかけた当の私が、べそをかいた。
「きのう迄は、あったんだよ。要《い》らなくなったから、売っちゃった。シャツなら、あるさ。」と無邪気な口調で言って、足もとの草原から、かなり上等らしい駱駝《らくだ》色のアンダアシャツを拾い上げ、「はだかで、ここまで来られるものか。僕の下宿は本郷だよ。ばかだね、君は。」
「はだしで来たわけじゃ、ないだろうね。」私は尚《なお》も、しつこく狐疑《こぎ》した。甚だ不安なのである。
「ああ、陸の上は不便だ。」少年はアンダアシャツを頭からかぶって着おわり、「バイロンは、水泳している間だけは、自分の跛《びっこ》を意識しなくてよかったんだ。だから水の中に居ることを好んだのさ。本当に、本当に、水の中では靴も要らない。上衣も要らない。貴賤貧富の別が無いんだ。」と声に気取った抑揚《よくよう》をつけて言った。
「君はバイロンかい。」私は努めて興醒《きょうざ》めの言葉を選んで言った。少年の相変らずの思わせぶりが、次第に鼻持ちならなく感ぜられて来たのである。「君は跛でもないじゃないか。それに、人間は、水の中にばかり居られるものじゃない。」自分で言いながら、ぞっとした程狂暴な、味気ない言葉であった。毒を以て毒を制するのだ。かまう事は無い、と胸の奥でこっそり自己弁解した。
「嫉妬さ。妬《や》けているんだよ、君は。」少年は下唇をちろと舐《な》めて口早に応じた。「老いぼれのぼんくらは、若い才能に遭うと、いたたまらなくなるものさ。否定し尽すまでは、堪忍できないんだ。ヒステリイを起しちゃうんだから仕様が無い。話があるんなら、話を聞くよ。だらしが無いねえ、君は。僕を、どこかへ引っぱって行こうというのか?」
見ると、彼は、いつのまにやら、ちゃんと下駄をはいている。買って間も無いものらしく、一見したところは私の下駄より、はるかに立派である。私は
前へ
次へ
全37ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング