の處女作、聖アントワンヌの誘惑に對する不評判の屈辱をそそがうとして、一生を棒にふつた。所謂刳磔の苦勞をして、一作、一作を書き終へるごとに、世評はともあれ、彼の屈辱の傷はいよいよ激烈にうづき、痛み、彼の心の滿たされぬ空洞が、いよいよひろがり、深まり、さうして死んだのである。傑作の幻影にだまくらかされ、永遠の美に魅せられ、浮かされ、たうたうひとりの近親はおろか、自分自身をさへ救ふことができなんだ。ボオドレエルこそは、お坊ちやん。以上。
 先生、及第させて、などとは書かないのである。二度くりかへして讀み、書き誤りを見出さず、それから、左手に外套と帽子を持ち右手にそのいちまいの答案を持つて、立ちあがつた。われのうしろの秀才は、われの立つたために、あわてふためいてゐた。われの背こそは、この男の防風林になつてゐたのだ。ああ。その兎に似た愛らしい秀才の答案には、新進作家の名前が記されてゐたのである。われはこの有名な新進作家の狼狽を不憫に思ひつつ、かのぢぢむさげな教授に意味ありげに一禮して、おのが答案を提出した。われはしづしづと試驗場を、出るが早いかころげ落ちるやうに階段を駈け降りた。
 戸外へ出て、
前へ 次へ
全25ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング