本一の評論家がゐるさうな。日本一の小説家、われはそれを思ひ、ひそかに頬をほてらせた。教授がボオルドに問題を書きなぐつてゐる間に、われの背後の大學生たちは、學問の話でなく、たいてい滿洲の景氣の話を囁き合つてゐるのである。ボオルドには、フランス語が五六行。教授は教壇の肘掛椅子にだらしなく坐り、さもさも不氣嫌さうに言ひ放つた。
 ――こんな問題ぢや落第したくてもできめえ。
 大學生たちは、ひくく力なく笑つた。われも笑つた。教授はそれから譯のわからぬフランス語を二言三言つぶやき、教壇の机のうへでなにやら書きものを始めたのである。
 われはフランス語を知らぬ。どのやうな問題が出ても、フロオベエルはお坊ちやんである、と書くつもりでゐた。われはしばらく思索にふけつたふりをして眼を輕くつぶつたり短い頭髮のふけを拂ひ落したり、爪の色あひを眺めたりするのである。やがて、ペンを取りあげて書きはじめた。
 ――フロオベエルはお坊ちやんである。弟子のモオパスサンは大人である。藝術の美は所詮、市民への奉仕の美である。このかなしいあきらめを、フロオベエルは知らなかつたしモオパスサンは知つてゐた。フロオベエルはおのれ
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