闇のなかでどんな刺繍ができるものかと、少年は拔けめのない紳士のやうに、鼻の兩わきへ深い皺をきざみこませ口まげてせせら笑つたものである。
 日本チヤリネがくろんぼを一匹つれて來た。村は、どよめいた。ひとを食ふさうである。まつかな角が生えてゐる。全身に花のかたちのむらがある。少年は、まつたくそれを信じないのであつた。少年は思ふのだ。村のひとたちも心から信じてそんな噂をしてゐるのではあるまい。ふだんから夢のない生活をしてゐるゆゑ、こんなときにこそ勝手な傳説を作りあげ、信じたふりして醉つてゐるのにちがひない。少年は村のひとたちのそんな安易な嘘を聞くたびごとに、齒ぎしりをし耳を覆ひ、飛んで彼の家へ歸るのであつた。少年は村のひとたちの噂話を間拔けてゐると思ふのだ。なぜこのひとたちは、もつとだいじなことがらを話し合はないのであらう。くろんぼは、雌ださうではないか。
 チヤリネの音樂隊は、村のせまい道をねりあるき、六十秒とたたぬうちに村の隅から隅にまで宣傳しつくすことができた。一本道の兩側に三丁ほど茅葺の家が立ちならんでゐるだけであつたのである。音樂隊は、村のはづれに出てしまつてもあゆみをとめないで、
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