銀笛が出た。銀笛は軒燈の燈にきらきら反射した。銀笛はふたりの亭主を失つた中年の女給に手渡された。
 百姓のこのよさが、私を夢中にさせたのだ。それは小説のうへでなく、眞實、私はこの百姓を殺さうと思つた。
 ――出ろ。
 さう叫んで、私は百姓の向ふ臑を泥靴で力いつぱいに蹴あげた。蹴たふして、それから澄んだ三白眼をくり拔く。泥靴はむなしく空を蹴つたのである。私は自身の不恰好に氣づいた。悲しく思つた。ほのあたたかいこぶしが、私の左の眼から大きい鼻にかけて命中した。眼からまつかな焔が噴き出た。私はそれを見た。私はよろめいたふりをした。右の耳朶から頬にかけてぴしやつと平手が命中した。私は泥のなかに兩手をついた。とつさのうちに百姓の片脚をがぶと噛んだ。脚は固かつた。路傍の白楊の杙であつた。私は泥にうつぶして、いまこそおいおい聲をたてて泣かう泣かうとあせつたけれど、あはれ、一滴の涙も出なかつた。

       くろんぼ

 くろんぼは檻の中にはひつてゐた。檻の中は一坪ほどのひろさであつて、まつくらい奧隅に、丸太でつくられた腰掛がひとつ置かれてゐた。くろんぼはそこに坐つて、刺繍をしてゐた。このやうな暗
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