あと四本しか呑めぬ。それでは足りない。足りないのだ。盜まう。このウヰスキイを盜まう。女給たちは、私が金錢のために盜むのでなく、豫言者らしい突飛な冗談と見てとつて、かへつて喝采を送るだらう。この百姓もまた、醉ひどれの惡ふざけとして苦笑をもらすくらゐのところであらう。盜め! 私は手をのばし、隣りのテエブルのそのウヰスキイのコツプをとりあげ、おちついて呑みほした。喝采は起らなかつた。しづかになつた。百姓は私のはうをむいて立ちあがつた。外へ出ろ。さう言つて、入口のはうへ歩きはじめた。私も、にやにや笑ひながら百姓のあとについて歩いた。金色の額縁にをさめられてある鏡を通りすがりにちらと覗いた。私は、ゆつたりした美丈夫であつた。鏡の奧底には、一尺に二尺の笑ひ顏が沈んでゐた。私は心の平靜をとりもどした。自信ありげに、モスリンのカアテンをぱつとはじいた。
THE HIMAWARI と黄色いロオマ字が書かれてある四角の軒燈の下で、私たちは立ちどまつた。女給四人は、薄暗い門口に白い顏を四つ浮かせてゐた。
私たちは次のやうな爭論をはじめたのである。
――あまり馬鹿にするなよ。
――馬鹿にしたのぢやない
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