の大學生をえらんで聲をかけてやつた。うすみどり色の外套にくるまつた、その大學生は立ちどまり、ノオトから眼をはなさず、くはへてゐた金口の煙草をわれに與へた。與へてそのままのろのろと歩み去つた。大學にもわれに匹敵する男がある。われはその金口の外國煙草からおのが安煙草に火をうつして、おもむろに立ちあがり、金口の煙草を力こめて地べたへ投げ捨て靴の裏でにくしみにくしみ踏みにじつた。それから、ゆつたり試驗場へ現れたのである。
試驗場では、百人にあまる大學生たちが、すべてうしろへうしろへと尻込みしてゐた。前方の席に坐るならば、思ふがままに答案を書けまいと懸念してゐるのだ。われは秀才らしく最前列の席に腰をおろし、少し指先をふるはせつつ煙草をふかした。われには机のしたで調べるノオトもなければ、互ひに小聲で相談し合ふひとりの友人もないのである。
やがて、あから顏の教授が、ふくらんだ鞄をぶらさげてあたふたと試驗場へ駈け込んで來た。この男は、日本一のフランス文學者である。われは、けふはじめて、この男を見た。なかなかの柄であつて、われは彼の眉間の皺に不覺ながら威壓を感じた。この男の弟子には、日本一の詩人と日本一の評論家がゐるさうな。日本一の小説家、われはそれを思ひ、ひそかに頬をほてらせた。教授がボオルドに問題を書きなぐつてゐる間に、われの背後の大學生たちは、學問の話でなく、たいてい滿洲の景氣の話を囁き合つてゐるのである。ボオルドには、フランス語が五六行。教授は教壇の肘掛椅子にだらしなく坐り、さもさも不氣嫌さうに言ひ放つた。
――こんな問題ぢや落第したくてもできめえ。
大學生たちは、ひくく力なく笑つた。われも笑つた。教授はそれから譯のわからぬフランス語を二言三言つぶやき、教壇の机のうへでなにやら書きものを始めたのである。
われはフランス語を知らぬ。どのやうな問題が出ても、フロオベエルはお坊ちやんである、と書くつもりでゐた。われはしばらく思索にふけつたふりをして眼を輕くつぶつたり短い頭髮のふけを拂ひ落したり、爪の色あひを眺めたりするのである。やがて、ペンを取りあげて書きはじめた。
――フロオベエルはお坊ちやんである。弟子のモオパスサンは大人である。藝術の美は所詮、市民への奉仕の美である。このかなしいあきらめを、フロオベエルは知らなかつたしモオパスサンは知つてゐた。フロオベエルはおのれ
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