を借りて住んでいたのであるが、その結婚式の日に普段着のままで、東京のその先輩のお宅へ参上したのである。その先輩のお宅で嫁と逢って、そうして先輩から、おさかずきを頂戴して、嫁を連れて甲府へ帰るという手筈《てはず》であった。北さん、中畑さんも、その日、私の親がわりとして立会って下さる事になっていた。私は朝早く甲府を出発して、昼頃、先輩のお宅へ到着した。私は本当に、普段着のままで、散髪もせず、袴《はかま》もはいていなかった。着のみ着のままの状態だったし、懐中も無一文に近かった。先輩は書斎で静かにお仕事をして居られた。(先輩というのは、実は○○先生なのだが、○○先生は、小説や随筆にお名前を出されるのを、かねがねとてもいやがって居られるので、わざと先輩という失礼な普通名詞を使用するのである。)先輩は、結婚式も何も忘れてしまっているような様子であった。原稿用紙を片づけながら、庭の樹木の事など私に説明して聞かせた。それから、ふっと気がついたように、
「着物が来ている。中畑さんから送って来たのだ。なんだか、いい着物らしいよ。」と言った。
 黒羽二重の紋服一かさね、それに袴と、それから別に絹の縞《しま》
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