に一つ、その酒なるものを飲んで置こう、何事も、経験してみなくては損である、実行しよう、という変な如何《いか》にも小人のもの欲しげな精神から、配給の酒もとにかくいただく、ビヤホオルというところへも一度突撃して、もまれてみたい、何事にも負けてはならぬ、おでんやというものも一つ、試みたい、カフェというところも話には聞いているが、一たいどんな具合いか、いまのうちに是非実験をしてみたい、などというつまらぬ向上心から、いつのまにやら一ぱしの酒飲みになって、お金の無い時には、一目盛の酒を惜しみ、茶柱の立ったウイスキイを喜び、もう、やめられなくなっている人たちも、かなり多いのではないかと私には思われる。とかく小人は、度しがたいものである。
 たまに酒の店などへ行ってみても、実に、いやな事が多い。お客のあさはかな虚栄と卑屈、店のおやじの傲慢《ごうまん》貪慾《どんよく》、ああもう酒はいやだ、と行く度毎に私は禁酒の決意をあらたにするのであるが、機が熟さぬとでもいうのか、いまだに断行の運びにいたらぬ。
 店へはいる。「いらっしゃい」などと言われて店の者に笑顔で迎えられたのは、あれは昔の事だ。いまは客のほうで笑
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