した。それであなたは朝や夕べに手洗をつかうことも誇るがいいでしょう。そういう精神が涵養《かんよう》されなかったために未だに日本新文学が傑作を生んでいない。あなたはもっと誇りを高く高くするがいい。永野喜美代。太宰治君。」
「わずかな興《きょう》を覚えた時にも、彼はそれを確める為《ため》に大声を発して笑ってみた。ささやかな思い出に一滴の涙が眼がしらに浮ぶときにも、彼はここぞと鏡の前に飛んでゆき、自らの悲歎に暮れたる侘《わび》しき姿を、ほれぼれと眺めた。取るに足らぬ女性の嫉妬《しっと》から、些《いささ》かの掠《かす》り傷を受けても、彼は怨《うら》みの刃《やいば》を受けたように得意になり、たかだか二万|法《フラン》の借金にも、彼は、(百万法の負債に苛責《さいな》まれる天才の運命は悲惨なる哉《かな》。)などと傲語《ごうご》してみる。彼は偉大なのらくら者、悒鬱《ゆううつ》な野心家、華美な薄倖児《はっこうじ》である。彼を絶えず照した怠惰の青い太陽は、天が彼に賦与《ふよ》した才能の半ばを蒸発させ、蚕食《さんしょく》した。巴里《パリ》、若《も》しくは日本高円寺の恐るべき生活の中に往々見出し得るこの種の『
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