ほど近く顔を寄せて、こっそり教えて呉れましたが、高橋君は、もともと文学青年だったのです。六、七年まえのことでございますが、当時、信濃の山々、奥深くにたてこもって、創作三昧、しずかに一日一日を生きて居られた藤村、島崎先生から、百枚ちかくの約束の玉稿、(このときの創作は、文豪老年期を代表する傑作という折紙つきました。)ぜひともいただいて来るよう、まして此のたびは他の雑誌社に奪われる危険もあり、如才《じょさい》なく立ちまわれよ、と編輯長に言われて、ふだんから生真面目の人、しかもそのころは未だ二十代、山の奥、竹の柱の草庵に文豪とたった二人、囲炉裏《いろり》を挟んで徹宵お話うけたまわれるのだと、期待、緊張、それがために顔もやや青ざめ、同僚たちのにぎやかな声援にも、いちいち口を引きしめては深くうなずき、決意のほどを見せるのです。廻転ドアにわれとわが身を音たかく叩《たた》きつけ、一直線に旅立ったときのひょろ長い後姿には、笑ってすまされないものがございました。四日目の朝、しょんぼり、びしょ濡《ぬ》れになって、社へ帰ってまいりました。やられたのです。かれの言いぶんに拠《よ》れば、字義どおりの一足ちがい、
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