ます。普通のお人の場合では、一度きりですよ、とは言つても、またさらにもう一度と押してたのまれると、だから前に一度きりと断つて置きましたのに、仕様がないな、などと言ひながらも渋々また応ずるものでございますが、相州さまの場合には決してそのやうな事はなく、一度きりと言へばまさにそのとほりに一度きり、冗談も何もなく、あとはぴたりとお断りになるのでございます。その証拠には、すぐつづいて時政公が、またも牧の方さまにそそのかされ、当時将軍家弑逆の大それた陰謀をたくらんだ時には、もうはじめつから父君、義母君を敵として戦ひ、少しの情容赦もなくそのお二人の御異図を微塵に粉砕し、父君をば鎌倉より追放なされ、継母の牧の方さまには自害をすすめて一命をいただいておしまひになりました。その御性格には優柔不断なところが少しもなく、こはいくらゐに真面目に正確に御処置なさつてしまふのでございます。故右大将家のあの時に、ひとりぽつんとお家に残つて居られたといふ事も、また畠山御一族を逆臣に非ずと事もなげに言ひ切つて、さうして御継母に泣きつかれて、この度いちど限りとおつしやつて立ち上り、その次の御父母の悪逆の陰謀には、はつきり対立して将軍家を御守護申し上げたといふ事も、少しも間違つた御態度ではなく、間違ひどころか、まことに御立派な、忠義一途の正しい御挙止のやうに見えながらも、なんだか、そこにいやな陰気の影があるやうな心地がいたしまして、正しさとは、そんなものでない、はつきり言へませぬが、本当の正しさと似てゐながら、どこか全く違ふらしい、ひどく気味の悪いものがあるやうな気がするのは、私だけでございませうか。その頃、鎌倉の諸処に於いて、北条家横暴といふ声が次第に高くなつて来て居りましたのは、事実でございますが、それでは北条家のどなたがどのやうな専権を用ゐたかといふ事になると、まことに朦朧としてまゐりまして、尼御台さまだつて、将軍家が立派に御成人なされてすべてあざやかに御政務を決裁なさつて居られるのにいちいちお口出しをなさる必要もなく、その頃はもつぱら故二品禅室さまの御遺児のお世話やら、また北条家御一族間の御交際、または御台所さまと連れ立つて鶴岳御参宮、将軍家の船遊び等にもお気軽にお供をなさるし、どこにもそんな専横の影は見受けられませんでした。相州さまはまた、ひたすらお役目お大事で、朝から晩まで幕府のこまごましたお仕事に追はれて、例の異常の正しさを以て怠らず律儀にお働きになり、その頃は将軍家の御意にさからふやうな事もほとんどなく、いまさら御一族と謀つて何かたくらむなどそんなおひまも野心もお持ち合せにならぬやうな御様子でございました。また御長子の修理亮泰時さまは、あのやうに御品性高く、将軍家のお覚えもめでたく、この建暦三年の二月に芸能の際立つてすぐれた近侍のお方たちばかりを集めて学問所番といふものをお作りになつた時にも、この修理亮泰時さまは、その御首席に選定せられたほどで、御ところの人気をおひとりで背負つて居られたやうな有様で、まさかあの、次男若君の朝時さまが専横といふわけでもございませんでせうし、専横どころか好色のあやまちのため御勘当になつたりなどしたのですからこれは問題外、ほかに相州さまの御弟の武州時房さまも居られますが、このお方はただ温厚のお方のやうで二念なく御実兄の相州さまのお下に控へていらつしやいましたし、結局、誰がどのやうに横暴なのか、どんな工合に出しやばるのか甚だ漠然たるものになつてしまふのでございます。相州さまが執権として幕府の首座に居られるのが気に食はぬとは言つても、それは無理な話で、故右大将家をまづまつさきにお助け申したのはこの北条家でございまして、和田左衛門尉義盛さまなど、よく御挙兵以来の御自身の軍功を御自慢なさいますが、伊豆の流人の頼朝公を、一目見てその非凡の御人物たることを察知いたし、わが長女との御親交をもあらはに怒り、ひそかに許容し、今を時めく平家の御威勢も恐れずこれをかくまひ申し、百人にも足らぬ一族郎党をことごとく献じて、伊豆の片隅に敢然と源家の旗をひるがへさせたお方は、余人ではございませぬ、この相州さまのお父君時政公でございました。その頃の北条氏には、たいした勢力もございませんでしたでせうに、いくら故将軍家の御人物を見込んだとて、時政公もまことに無謀な御決意をなさいましたもので、治承四年、以仁王よりの平家討伐の御令旨を賜つて勇気百倍、まづ戦の門出に伊豆の目代、平の兼隆を血祭りにあげようといふ事になり、お若いながらも御如才のない故将軍家は、出発に先立ち北条氏の一族郎党を煩をいとはずひとりひとり順々に別室へお招きになつて、汝ひとりが頼みだ、とおつしやいましたさうで、おのおのご自分ひとりが特に頼朝公の御信任を得てゐるのだと思ひ込み士気大いにあがり、けれども、たつた八十五騎とは心細いやうなもので、馬は毛深いよぼよぼの百姓馬、鎧は色あせて片袖の無いのがあつたり、毛沓は虫に食はれて毛が脱落いたし、いづれを見ても満足の武装ではなく、中には頬被りするものなどもあつて、ひどい軍勢でございましたさうですが、時政公の乾坤一擲の御意気ものすごく、すすめやすすめと戦法も何もあつたものでなく、ただどやどやと目代のお宅にあがり込み、寄つてたかつて兼隆の首級を挙げ、さいさきよしと喜び合つたこれこそ、そもそもの真の御挙兵とも申すべきで、和田左衛門尉さまなどは、その後、時政公からの使者を受けて三浦さま御一族と共にこれに御助勢申し上げたので、あの畠山御一族などはそのころは平家方にお仕へしてゐて、その三浦和田の軍勢と一合戦なさつた事さへあるさうで、はじめの八十五騎の心細くもあり、またけなげの御挙兵はただ北条家御一族にのみよつてなされたといふのは、たしかな事のやうでございまして、それ以来、故将軍家幕府御創設までの北条家御一族のお働きは、ご存じないお方など、ひとりも無い筈でございます。また当将軍家に対しては、ちやうど時政公が故右大将家をひとめで見込んだやうに、その御嫡子の義時さまが非常な力のいれ方で、前にも申し上げましたが当将軍家御襲職のために比企氏と戦ひこれを倒し、またのちに実の御父君と争つてまで当将軍家のお身を御守護なされ、それからも蔭になり日向になりお世話申してまゐりました、謂はばこれも当将軍家にとつては第一の功臣、先代の時政公は故右大将家の第一の功臣、このやうに親子二代つづいてそれぞれの将軍家におつくしなさつたのでございますから、外戚とか何かの御縁を求めなくとも当然、執権におなりになるべき御人物で、そこに不思議は無い筈でございますが、けれども、どういふものか北条氏専横の不平の声が御ところの内にも巷にも絶えませんでした。なにもかも、あの相州さまの奇妙な律儀が、いけないので、あれが人の心にいやな暗い疑ひや憎しみを抱かせるのではないかと私には思はれてなりませぬ。正しい事をすればするほど、そこになんとも不快な悪臭が湧いて出るとは、まことに不思議な御人柄のお方もあつたものでございます。そのとしの三月にも相州さまは極めて当然の或る御処置をなさつたにもかかはらず、それが他人の私共にさへ、なんだかむごく、憎らしく思はれ、たうとう和田さま御一族を激怒させ、鎌倉中が修羅の巷に化するほどの大騒動が起つてしまひました。泉小次郎親平の異変のあと始末もすんで、和田左衛門尉さまのお二人の御子息もめでたく御赦免にあづかり、これで一段落かと思つて居りましたところが、三月九日、すなはち和田左衛門尉さまがお二人の御子息の宥免のお沙汰に感泣なさいましたそのすぐ翌日、こんどは義盛さまの甥の和田平太胤長さまが、やはりこのたびの陰謀に加はり捕へられてお預けの身になつてゐるのを御赦し下さるやう、義盛さまからの重ねての御歎願がございました。私はその時お奥に伺候して居りましたので、その有様を拝見できませんでしたが、なんでも、義盛さまは木蘭地の水干に葛袴といふ御立派のいでたちで、御一族九十八人を引き連れ、みんな御一緒にずらりと南庭に列座して、胤長さま御放免の事をひとへに御歎願あそばしたとか、あまりのものものしさに、広元入道さまはお顔色を変へてお奥へ御注進にまゐりました。この広元さまは、建保五年に出家なされて法名覚阿と申し上げる事になりましたのでございますけれども、そのずつと前からもお頭のお禿げ工合ひなどで、御出家さまのやうな感じが致して居りまして、大官令さま、大膳大夫さま、または陸奥守さまなどとお呼びするよりも、入道さまとお呼びするのが今の私には一ばんぴつたりしてゐるやうな気が致しまして、また、ついでながら、相州さまの事をお呼び申し上げるにしても、相州さまはその後に右京権大夫にもおなりになるし、また陸奥守をもお兼ねになつたのでございますから、右京兆さまとか奥州さまとお呼び申さなければならぬ場合もございますのですが、どうも、相州さまとお呼びするはうが、自然の気持が致しますので、まあ、こまかい事にはあまりこだはらず、入道さま、相州さま、とお呼びしてお話をすすめることがございましても、そこはおとがめなく、お聞き捨て下さるやうお願ひ申し上げます。さて、その時に、広元入道さまの息せき切つての御注進を将軍家は静かに御聴取になり、うつむいてしばらくお考への御様子でございましたが、やがて、ふいとお顔を挙げ何か言ひ出さうとなされた途端、
「おゆるしなさいますか。」
 とお傍に居合せた相州さまが、軽く無雑作におつしやつたのでございます。その一言には微塵も邪念がなく、ただぼんやりおつしやつただけの言葉のやうでありながらも、末座の私どもまで、なぜだか、どきんとしたほどに、無限に深い底意が感ぜられ、将軍家に於いてもその一言のために、くるりとお考へが変つた御様子で、幽かにお首を横にお振りになつてしまひました。
「なにしろ、」と広元入道さまは、将軍家のお心のきまつたらしいのを見とどけて、ほつとした御様子で、つるりとお顔を撫で、それから仔細らしく眉をひそめて言ひ出しました。この広元入道さまは、まことに御用心深いお方で、何事につけても決して強く出しやばるやうな真似はなさらず、私どもにはなんの事やらわけのわからぬくらゐ甚だ遠まはしのあいまいな言ひかたばかりなさつて、四囲の大勢が決すると、はじめて、思案深げにその大勢に合槌を打つといふのが、いつものならはしでございまして、私どもにはそのお態度がどうにも歯がゆくてたまりませんでしたけれど、それがまた入道さまの大人物たる所以で、故右大将家幕府御創設このかた、人にうらまれるやうな事もなく、これといふ御失態もなさらず、つねに鎌倉一の大政治家たるの栄誉を持ちつづけることの出来た原因の一つでございましたのかも知れませぬ。「あの和田平太胤長といふのは、このたびの陰謀の張本人のひとりでございますから、御子息の義直、義重などの伴類のものと同様に御赦免は、むづかしからうとは存じましたが、一族九十八人がずらりと居並んでの歎願には、いや驚きまして、一応お取次ぎだけは致して置かうと存じましてただいま申し上げてみたやうな次第でございますが、和田氏もきのふ御子息の御宥免にあづかつたばかりなのに、さらに今日は主謀者たる甥の御赦免まで願ひ出るとは、ちと虫がよすぎるとは思ひましたものの、なにしろあの頑固の老人の事でございますから、是が非でもこの懇願一つはお聞きいれ賜りたしと、ぴたりと坐つて動きませんので、いや、とにかく、これは、――」などと、おつしやる事がやつぱり少しも要領を得ませんでした。広元さまは、大事な時には、いつでもこのやうなお態度をおとりになるのでございます。その時にも、将軍家に於いては既に御許容相成らずと決裁がすんでゐるのに、その御決裁を和田氏一族に申渡す憎まれ役だけはごめんなので、かうして何かとつまらぬ事をくどくどとおつしやつて、そのうち誰か、申渡しの役を引受けてくれるだらうとお心待ちになつて居られたのに違ひございませぬ。まいどの事なので相州さまにもそれがわからぬ筈はなく、まじめなお顔で、「それでは私が申渡してまゐりませう。
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