条一族を殲滅せんとの大陰謀を企て、建暦元年頃よりひそかに同志を募つて居りましたのださうで、直接、当将軍家に対しては逆意がなかつたやうでございますが、何せそのお傍に控へて権力を振ふ相州さまが憎くて、それにまたこの泉親平に劣らず、かねてより相州さまをこころよからず思つてゐた御家人もなかなか多かつた様子で、たちまち同志がふえて一大勢力になりかけた時、二月十五日、千葉介成胤さまが、安念坊といふ挙動あやしき法師を捕へて、相州さまのお手許に差し出しました。これが大陰謀露顕の端緒で、その安念坊といふ法師は、謀逆の遊説使のやうなものでございましたさうですから、大いにその法師は責めたてられ、つひにその自白に依り、同志百三十余人、伴類二百人ことごとく召しとられ、相州さまの下知で、ただちに断罪あるいは流罪に処せられた様子でございますが、叛逆の張本人たる泉小次郎親平だけは、いづかたへともなく逃れ去つておしまひになつたさうで、相当の豪傑でしかも機敏のお方だつたらしく思はれます。将軍家に於いては、この異変をお耳になさつても別にお驚きになるやうな御様子も無く、ずつと以前からご存じのやうなお落ちつき振りで、ただその、泉親平といふ人の氏素性をずいぶんこまかにお尋ねになつて居られました。反徒たちに対してお怒りになつて居られるやうな御様子も見受けられず、反徒のひとり、薗田七郎成朝といふ人が召しとられて北条三郎時綱さまのお宅に預けられてゐたのを、まんまと脱走して、知人の敬音とかいふお坊さんのところへ行き、そのお坊さんが成朝に出家をすすめたところが、冗談言つてはこまる、私はこれからまた出直して大いに出世をするんだ、と放言して酒をのんで、それではまた、と言ひ残して行方知れずになつたとか、二、三日後にその坊さんは召し出されて、逐一その夜のことを陳述いたしましたが、あとで将軍家はそれをお聞きになつて声を立ててお笑ひになり、それは感心なこころがけだ、早くその者を見つけ出してゆるしておやりなさい、とおつしやつたのでございます。それからまた同じ囚人の渋河刑部六郎兼守といふ人が、断罪に処せられる前日に、十首の和歌を荏柄の聖廟に進じたとか、それをまた物好きにも御ところへ持つて来たお方がありまして、将軍家は、それを御覧になり、なかなか上手な歌です、この者をもゆるしておやりなさい、と気軽にお言ひつけになりました。すべてこのやうな調子で、このたびの異変に就いては一向になんともお感じになつて居られない御様子でございました。お傍で渋いお顔をなさつてゐる相州さまに対してお気がねなさるやうな事もなく、まことに天衣無縫、その御度量のほどは私どもにはただ不思議と申すより他はございませんでした。またこの陰謀の伴類の中に和田さまの御子息、四郎義直さま、五郎義重さまも、甚だまづい事でございましたが、はひつて居りまして、おのおのお預けの身になつてゐたのでございます。御父、和田左衛門尉義盛さまは、その頃、上総国伊北庄に御滞在でございましたさうで、鎌倉に兵起るの風聞に接しとるものも取りあへず鎌倉に駈けつけてみたら、御子息お二人捕へられてゐるので仰天して、ただちに御ところへ参り、拝謁のほどを願ひいれましたところ、御機嫌よくお許しに相成りすぐに御対面なさいました。その時、和田左衛門尉さまは、はつと平伏なさいましたきりで、額の皺に汗をにじませ、しばらくは何も言上できぬ御様子でございましたが、やがて、例の訥々たる御口調で、甚だ唐突に、故右大将家御挙兵以来の義盛さま御自身の十数度にわたる軍功を一つ一つならべ立てたのでございます。それも、考へ考へぽつりぽつりと申し上げるのでございますから、その長つたらしい事、将軍家もたうとう途中に於いてお笑ひになり、
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ワカリマシタ。子息ハ宥免ノツモリデヰマシタ。
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「身に余る面目。義盛づれの老骨を、――」と言ひかけて、たまらずわつと手放しでお泣きになつてしまひましたが、この主、この臣、まことにお二方の間の御情愛は、はたで見る眼にも美しい限りのものでございました。

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同年。三月大。九日、庚戌、晴、義盛今日又御所に参ず、一族九十八人を引率して南庭に列座す、是囚人胤長を厚免せらる可きの由、申請ふに依りてなり、広元朝臣申次たり、而るに彼の胤長は、今度の張本として、殊に計略を廻らすの旨、聞食すの間、御許容に能はず、即ち行親、忠家等の手より、山城判官行村の方に召渡さる、重ねて禁遏を加ふ可きの由、相州御旨を伝へらる、此間、胤長の身を面縛し、一族の座前を渡し、行村に之を請取らしむ、義盛の逆心職として之に由ると云々。十七日、戊午、陰、和田平太胤長、陸奥国岩瀬郡に配流せらると云々。廿一日、壬戌、和田平太胤長の女子、父の遠向を悲しむの余、此間病悩、頗る其恃少し、而るに新兵衛尉朝盛、其聞甚だ胤長に相似たり、仍つて父帰来の由を称して訪ひ到る、少生聊か擡頭して一瞬之を見、遂に閉眼すと云々、同夜火葬す、母則ち素懐を遂ぐ、西谷の和泉阿闍梨戒師たりと云々。廿五日、丙寅、和田平太胤長の屋地、荏柄の前に在り、御所の東隣たるに依りて、昵近の士、面々に頻りに之を望み申す、而るに今日、左衛門尉義盛、女房五条局に属して、愁へ申して云ふ、彼地は適宿直祗候の便有り、之を拝領せしむ可きかと云々、忽ち之を達せしむ、殊に喜悦の思を成すと云々。
同年。四月小。二日、癸酉、相州、胤長の荏柄の前の屋地を拝領せられ、則ち行親、忠家に分ち給ふの間、前給の人を追ひ出す、和田左衛門尉義盛、代官久野谷弥次郎、各卜居する所なり、義盛鬱陶を含むと雖も、勝劣を論ずれば、已に虎鼠の如し、仍つて再び子細を申す能はずと云々、先日一類を相率ゐて、胤長の事を参訴するの時、敢て恩許の沙汰無く、剰へ其身を面縛し、一族の眼前を渡し、判官に下さるること、列参の眉目を失ふと称し、彼日より悉く出仕を止め畢んぬ、其後、義盛件の屋地を給はり、聊か怨念を慰せんと欲するの処、事を問はず替へらる、逆心弥止まずして起ると云々。
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 いつたいにあの相州さまは、奇妙に人に憎まれるお方でございました。右大臣さまがおなくなりになられ、私ども百余人は出家をいたし、その翌年、承久の乱とやらにて北条氏は気が狂つてさへ企て及ばぬほどの大逆の罪を犯しましたさうで、本当にどうしてまたそんな愚かしい暴虐をなさつたのか、乱臣逆賊と言つてもまだ足りぬ、まことに言語に絶した日本一の大たはけのなり下つた御様子でございますが、それまでには別に、これといふ目立つた悪業のなかつたお方でしたのに、それでも、どういふものか、人にはけむつたがられ、評判のよろしくないお方でございました。はじめにもちよつと申し上げて置きましたやうに、私たちの見たところでは、人の言ふほど陰険なお方のやうでもなく、気さくでへうきんなところもあり、さつぱりしたお方のやうにさへ見受けられましたが、けれども、どこやら、とても下品な、いやな匂ひがそのお人柄の底にふいと感ぜられて、幼心の私どもでさへ、ぞつとするやうなものが確かにございまして、あのお方がお部屋にはひつて来ると、さつと暗い、とても興覚めの気配が一座にただよひ、たまらぬほどに、いやでした。よく人は、源家は暗いと申してゐるやうでございますが、それは源家のお方たちの暗さではなく、この相模守義時さまおひとりの暗さが、四方にひろがつてゐる故ではなからうかとさへ私たちには思はれました。父君の時政公でさへ、この相州さまに較べると、まだしもお無邪気な放胆の明るさがあつたやうでございます。それほどの陰気なにほひが、いつたい、相州さまのどこから発してゐるのか、それはわかりませぬが、きつと、人間として一ばん大事な何かの徳に欠けてゐたのに違ひございませぬ。その生れつき不具のお心が、あの承久の乱などで、はしなくも暴露してしまつたのでございませうが、そのやうな大逆にいたらぬ前には、あのお方のそのおそろしい不具のお心をはつきり看破する事も出来ず、或いは将軍家だけはお気づきになつて居られたかと思はれるふしもないわけではございませぬけれども、当時はただ、あのお方を、なんとなく毛嫌ひして、けむつたがつてゐたといふのが鎌倉の大半の人の心情でございました。なんでもない事でも、あのお方がなさると、なんとも言へず、いやしげに見えるのでございますから、それはむしろ、あのお方にとつても不仕合せなところかも知れませぬ。以前はそれほどでもなかつたのでございますが、将軍家が立派に御成人なされ、政務の御決裁もおひとりで見事にお出来になるやうになつてから、目立つて下品に陰気くさくなりました。それまでは何一つ御失態もなく、故右大将家の頃から、それこそコツンと音のするほど生真面目に御主人大事に勤めて来られたお方のやうで、これは古老から聞いたお話でございますが、故右大将家御壮年の頃、その嬖姫の事から御台所の政子さまとごたごたが起り、御台所は牧のお方の御父、牧三郎宗親さまにお言ひつけになり、姫の寄寓して居られる家をどしどし取毀させてしまつたので姫は驚き、大多和義久とかいふ人のお家へ逃げて行かれて、その時には右大将家も御自身のお立場があまり有利ではございませんでしたので黙つて何事もおつしやらず、やがて、御用事にかこつけなされて、何気ないお顔で義久のお宅へ姫をお見舞ひにおいでになり、ただちに牧の宗親さまをお召しになつて、なぜあのやうな乱暴を働いたか、ばか者め、と大いに罵倒なされ、むずと宗親さまの髻をお掴みになり、お刀でその髻を切り落して坊主にしておしまひになりましたさうで、そのお噂が御台所のお耳にはひつて御台所はいよいよ怒りかつは泣き、牧のお方まで、共にわめきなされ、御台所の父君の時政公も、娘たちには同情したいが、将軍家にも恐縮ですし、閉口し切つて、右大将家には何も告げずに一族を連れて北条の里へ帰つておしまひになつて、その時、右大将家は梶原の景季さまに向つておつしやるには、たかが婦女子の事から一族を引き連れてその里に帰り謹慎するなどとは、時政も大袈裟な男だ、けれども江馬だけはあの一族でもそんな馬鹿な事はしない、父に従はず鎌倉の家にひとり残つてゐるにちがひないから見て来なさい、とおつしやつたとか。江馬とは時政公の嫡子、すなはちのちの相州さまの事で、梶原の景季さまはさつそく様子を見にまゐりまして、やがてにこにこ笑ひながら帰つて来て、仰せのとほり、義時ひとりぽつんと家に残つて居りました、と申し上げたさうで、右大将家もよろこび、すぐさまお若い義時さまを御前へお召しになつて、汝はわが子孫を託すべき者、と仰せられたとか、この時はその義時さまの実直なお態度のおかげで、すぐに四方八方円満にをさまつたのださうでございますが、お若い時からこのやうに妙にまじめな、お調子には絶対に乗らぬお方であつたやうでございます。またあの元久二年に、時政公は牧の方さまにそそのかされ、重成入道などと謀り、当時の名門、畠山御一族に逆臣の汚名を着せ、之を誅戮しようとなさつた時にも、相州さまは、平気な顔をして御父君に対し、およしなさい、あれは逆臣ではありません、と興覚めな事を言つて、少しも動かうとなさらず、父君や牧の方さまが何かと猛り立つて興奮すればするほどいよいよ冷静におなりになつて、あれは逆臣でありません、畠山父子は共に得がたい忠臣ですよ、ばかな真似はおやめなさい、何をそんなに血相をかへて騒いでゐるのです、みつともない、などとづけづけいやな事を申すので、牧の方さまはたうとう泣き出して、なんぼう私が継母だからとてそんなに私をいぢめなくてもいいではないか、継母といふものはそんなに憎いものですか、いや、憎いだらう、憎いであらう、これまでも何かにつけて私ひとりを悪者にして、いつたいどこまで私を苦しめるおつもりか、たまには私にも親孝行の真似事でもいいから見せておくれ、と変な事を口走る始末になつたので、若い相州さまは、苦笑して立ち上り、ぢやまあ、こんど一度きりですよ、と言つて畠山御一族討伐に参加なされたとかいふお話でござい
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