」と気軽くおつしやつて立ち上りかけ、ふと考へて、将軍家のはうに向き直り、「今後の事もありますから、少しきびしく申渡してやらうと存じますが、いかがです。」
将軍家は、その日どこやらお疲れになつて居られるやうな御様子でございまして、黙つてお首肯きになられただけでした。とにかくこれで広元入道さまは、れいの如くまんまと憎まれ役からのがれ、さうしてまた、相州さまは平気でそのいやな役を引受けて、いかにまいどの事とは言ひながら、相州さまはそんな時ちつともいやな顔をなさらぬのが、私たちには、なんとも不思議な事でございました。その日の相州さまの御申渡しの有様を、私はお奥に居りましたので拝見出来ませんでしたけれど、これがまたひどく峻烈なものだつたさうで、相州さまにとつては、それくらゐの事は当然の、それこそ「正しい」御処置のつもりでおやりになつたのでもございませうが、どうも相州さまがなさると何事によらず、深い意趣が含まれてゐるやうに見えて来るものですから、つひにその日は和田さま御一族九十八人を激昂させ、のちの鎌倉大騒擾が、ここに端を発したと言はれてゐるやうでございます。相州さまは南庭に列座してゐる御一族の者に向ひ、ただ一言、「御申請の件、御許容に能はず。」と事もなげに御申渡しになり、和田左衛門尉さまが何か言はうとなさつて進み出て威儀をとりつくろつてゐる間に、相州さまは、腹心の行親、忠家の両人に、それと目くばせして、囚人胤長さまを次の間より連れ出させ、義盛さまはじめ御一族が、これは不審、と思ふまもなくかの両人に命じて胤長さまを高手小手に縛り上げさせ、一族九十八人この意外の仕打に仰天して声もなくただ見まもつてゐるうちに相州さまは判官行村さまをお呼びになり、更に厳重に警固するやう言ひつけて囚人を手渡し、さつさと奥へお引き上げになつたさうで、それが叛逆の主謀者に対する正しい御処置なのかも知れませんが、わざわざ和田さまほどの名門の御一族大勢の面前で胤長さまを高手小手に縛りあげ、お役人に手渡して見せなくてもよささうなもので、それがまた相州さまのあの冷静で生真面目なお態度でもつて味もそつけも無くさつさと取行はれた事でございませうし、私ども他人でさへそれを聞いて、なんだか、いやな気が致しましたほどでございますから、当の和田左衛門尉さまをはじめ御一族の方々の御痛憤はいかばかりか、お察し出来るやうな気がいたします。和田平太胤長さまは、その月の十七日に陸奥国岩瀬郡に配流せられまして、それに就いてもまた、あはれな話がございました。胤長さまの六つになるおむすめが、父君とのながのお別れを悲しみ、そのおあとをお慕ひのあまり御病気になつて、その月の二十一日には全く危篤に陥り、それでもなほ、苦しい息の下から父君をお呼びする始末なので御一族のお方々も見るに忍びず、御一族の新兵衛尉朝盛さまの御様子が、胤長さまにちよつと似て居りましたので、一つその朝盛さまに父君の振りをしていただかうといふ事になり、もともとこの朝盛さまは武家のお生れに似合はぬほどにお気持が優しく、さうして将軍家のお覚えも殊にめでたかつたお方でございまして、こころよくその悲しいお役をお引受けになつて、危篤のおむすめの枕頭にお坐りになり、心配なさるな、父はこのとほり無事に帰つてまゐりました、と涙をのんでおつしやつたところが、おむすめは、あ、と言つて少し頭をもたげて幽かにお笑ひになり、それつきり息をお引取りになつたさうで、当時二十七歳のお若い母君もその場に於いて御剃髪なされ、その話を聞いて御ところの人々も御同情申さぬは無く、さうしてひそかに、相州さまのあまりの御仕打をお憎み申し上げたものでございました。和田左衛門尉義盛さまは、あの九日の御一族の歎願も意外の結果になり、御長老たる御面目を失ひましたので、その日から御ところへも出仕なさらず、鬱々と籠居の御様子でございましたが、ここにまた一つ、相州さまと火の発するほどに強い御衝突が起りまして、つひに争端必至のどうにもならぬ険悪の雲行きになつてしまひました。和田平太胤長さまの御屋敷は荏柄の聖廟の真向ひにございまして、それは胤長さまの御配流と共に没収せられ、なにしろ御ところのすぐ近くの土地でございまして御ところへ伺候するのに便利なものでございますから、皆がそのお屋敷を内々お望みの御様子でございましたけれども、左衛門尉義盛さまは、いまはせめて最後の一つの願ひとして、そのお屋敷を拝領いたしたいと、五条のお局さまを通して将軍家にこつそり御申入れなさつたのでございます。その時、将軍家は、お局さまのお言葉をみなまで聞かず、つづけて二、三度せはしげに御首肯なされて、即座に御聴許のお手続きをなされ、それからぼんやり全く他の事をお考への御様子で、しばらく黙つてうなだれて居られました。あのやうにお力無い将軍家を拝したのは、私にとつて、御奉公以来まことに、はじめての事でございました。何事にも既に御興趣を失ひなされたやうな、下衆の言ふ、それこそ浮かぬお顔をなさつて居られたのでございます。それから四、五日経つて、相州さまが、へんな薄笑ひを浮べて御前に伺候し、
「ただいま人から承りましたが、囚人胤長の屋敷を、」と言ひかけたら、すぐに、
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アレハ和田ニ
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とうつむいたまま低くおつしやいました。
相州さまは真面目になつて、
「それだけはお取消しを願ひます。ひどく悪い先例になります。謀叛人の領地を、その一族の者に、」といつになく強い語調でおつしやつて、ふいとお首を傾けて考へ、それから急にお声をひそめて、「いや、こればかりは、いけませぬ。」
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和田ガ喜ンデヰルサウデス
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将軍家は、やつぱりお弱い御口調でおつしやいました。
「お心の程は拝察できまするが、今後のこともあります。くどくは申し上げませぬ。お心を鬼になさいませ。」
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ソレホド大キナ事トモ思ヘヌ
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「大事です。反逆の徒輩の処置は大事です。幕府の安危にかかはる事です。胤長の屋敷は一時、私がおあづかり致しませう。他の者にあづけますと、その者がまた和田一族に、つまらぬ恨みを買ひます。私が憎まれ役になります。将軍家には、かかはりの無い事に致します。私情の意地で申し上げるのではありませぬ。幕府、千年の安泰のためです。くどくは申し上げませぬ。」
将軍家は、うつむかれたきりで、なんとも一言もおつしやいませんでした。
胤長さまのお屋敷は、さらに左衛門尉義盛さまからお取上げに相成り、相州さまがあづかる事になつて、和田さま御一族がそのお屋敷に移り住んで居られたのを、相州さまの御家来衆が力づくで追ひ立てたとか、左衛門尉義盛さまは悲憤の涙を流して、長生きはしたくないもの、さきに上総の国司挙任の事を再三お願ひ申し、しばらく待てとの将軍家よりの内々のお言葉もあり、慎んで吉報をお待ちしてゐたのに、一年待ち、二年待ち、三年待つても音沙汰無きゆゑ、さつぱりと諦らめて一昨年の暮、かの陳情書を御返却たまはるやう四郎兵衛尉をして大官令にお取りなしのほどをお願ひ申し上げさせたところ、将軍家に於いては、そのうち、よきに取りはからふつもりであつたのに、いままた勝手に款状の返却を乞ふとは、わがままの振舞ひ、と案外の御気色の仰せがあつたとか大官令よりの御返辞、思へばあの頃より、この左衛門尉のする事なす事くひちがひ、さきほどは一族九十八人、御ところの南庭に於いて未聞の大恥辱を受け、忍ぶべからざるを忍んでせめて一つ、胤長の屋敷なりともと望んで直ちに御聴許にあづかり、やれ有難や少しく面目をとりかへしたぞと胸撫でおろした途端に、このたびの慮外の仕打ち、あれと言ひ、これと言ひ、幕府に相州、大膳大夫の両奸蟠踞するがゆゑなり、将軍家の御素志いかに公正と雖も、左右に両奸の侍つてゐるうちは、われら御家人の不安、まさに深淵の薄氷を踏むが如きもの、相州の専横は言ふもさらなり、かの大膳大夫に於いても、相州または、さきの執権時政公のかずかずの悪事に加担せざるはなく、しかも世の誹謗は彼等父子にのみ集めさせておのれは涼しい善人の顔でもつぱら一家の隆盛をはかり、その柔佞多智、相州にまさるとも劣らぬ大奸物、両者を誅すべきはかねて天下の御家人のひとしくひそかに首肯してゐるところ、わが一族の若輩の切歯扼腕の情もいまは制すべきではない、老骨奮起一番して必ずこの幕府の奸を除かなければならぬ、といふやうな、悲壮にも、また一徹の、おそろしい御決意をここに於いて固められたのだと、のちのちの取沙汰でございました。
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同年。同月。七日、戊寅、幕府に於て、女房等を聚めて御酒宴有り、時に山内左衛門尉、筑後四郎兵衛尉等、屏の中門の砌に徘徊す、将軍家簾中より御覧じ、両人を御前の縁に召して、盃酒を給はるの間、仰せられて曰く、二人共に命を殞すこと近きに在るか、一人は御敵たる可し、一人は御所に候す可き者なりと云ふ、各怖畏の気有りて、盃を懐中して早出すと云々。廿日、辛卯、南京十五大寺に於て、衆僧を供養し、非人に施行有る可きの由、将軍家年来の御素願なり、今日京畿内の御家人等に仰せらると云々。廿七日、戊寅、霽、宮内兵衛尉公氏、将軍家の御使として、和田左衛門尉の宅に向ふ、是義盛用意の事有るの由聞食すに依りて、其実否を尋ね仰せらるるの故なり、晩景、また刑部丞忠季を以て御使と為し、義盛の許に遣はさる、世を度り奉る可きの由、其聞有り、殊に驚き思食す所なり、先づ蜂起を止め、退いて恩裁を待ち奉る可きなりと云々。廿九日、庚辰、霽、相模次郎朝時主、駿河国より参上す、将軍家の御気色並びに厳閤の義絶にて、彼国に籠居するの処、御用心の間、飛脚を以て之を召さると云々。
同年。五月小。二日、壬※[#「刀」の「ノ」が横向き、第3水準1−14−58]、陰、筑後左衛門尉朝重、義盛の近隣に在り、而るに義盛の館に軍兵競ひ集る、其粧を見、其音を聞きて戎服を備へ、使者を発して事の由を前大膳大夫に告ぐ、時に件の朝臣、賓客座に在りて、杯酒方に酣なり、亭主之を聞き、独り座を起ちて御所に奔り参ず、次に三浦平六左衛門尉義村、同弟九郎右衛門尉胤義等、始めは義盛と一諾を成し、北門を警固す可きの由、同心の起請文を書き乍ら、後には之を改変せしめ、兄弟各相議りて云ふ、早く先非を飜し、彼の内議の趣を告げ申す可しと、後悔に及びて、則ち相州御亭に参入し、義盛已に出軍の由を申す、時に相州囲碁の会有りて、此事を聞くと雖も、敢て以て驚動の気無く、心静に目算を加ふるの後起座し、折烏帽子を立烏帽子に改め、水干を装束きて幕府に参り給ふ、御所に於て敢て警衛の備無し、然れども両客の告に依りて、尼御台所並びに御台所等営中を去り、北の御門を出で、鶴岳の別当坊に渡御と云々、申刻、和田左衛門尉義盛、伴党を率ゐて、忽ち将軍の幕下を襲ふ、百五十の軍勢を三手に相分け、先づ幕府の南門並びに相州の御第、西北の両門を囲む、相州幕府に候せらると雖も、留守の壮士等義勢有りて、各夾板を切り、其隙を以て矢石の路と為して攻戦す、義兵多く以て傷死す、次に広元朝臣亭に、酒客座に在り、未だ去らざる砌に、義盛の大軍競ひ到りて、門前に進む、其名字を知らずと雖も、已に矢を発ちて攻め戦ふ、酉剋、賊徒遂に幕府の四面を囲み、旗を靡かし箭を飛ばす、朝夷名三郎義秀、惣門を敗り、南庭に乱れ入り、籠る所の御家人等を攻め撃ち、剰へ火を御所に放ち、郭内室屋一宇を残さず焼亡す、之に依りて将軍家、右大将軍家の法花堂に入御、火災を遁れ給ふ可きの故なり、相州、大官令御共に候せらる、凡そ義盛啻に大威を摂するのみに匪ず、其士率一以て千に当り、天地震怒して相戦ふ、今日の暮より終夜に及び、星を見るも未だ已まず、匠作全く彼の武勇を怖畏せず、且は身命を棄て、且は健士を勧めて、調禦するの間、暁更に臨みて、義盛漸く兵尽き箭窮まり、疲馬に策ちて、前浜辺に遁れ退く。三日、癸卯、小雨灑ぐ、義盛粮道を絶たれ、乗馬に疲るるの処、寅剋、横山馬允時兼、波多野三郎、横山五郎以
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