にいふ呑み込みのお早いこと、颯つと御自分を豹変なされてあつさり笑つてうなづき合ふ御様子は、傍で拝見してゐて子供心にも爽快な感じが致しました。世間の愚かな男同志のいつまでも、くどくどと言ひ争つてはては殴るの切るのとあさましく騒ぎたてる有様と較べて、まるでそれこそ雲泥の差がございました。十一月の四日に、御ところのお庭に於いて弓の大試合がございましたけれど、これは相州さまがたつた一言、お歌も結構ですが、とおつしやつたところが将軍家はすぐに、弓の試合を仰出され、相州さまはかしこまつてそのお支度におとりかかりになつたといふだけの事でしたのに、これをまた例の如く悪推量する者があつて、将軍家が相州さまからきつく諫言されてしぶしぶ弓の試合を仰出されたといふ噂が一部に行はれたやうでございました。本当に、御当人同志はなんでもないのに、はたでわいわいあらぬことを騒ぎ立てるので、つい妙な結果になつてしまふ事がこの世にはままあるものでございます。弓の試合は将軍家も心から楽しさうに御覧になつて居られました。その翌る日、相州さまは御奥へおいでなされて、将軍家に昨日の御礼を申し上げ、いかがでございました、と少し笑ひながらお伺ひ申し上げたところが、
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弓ノ勝負モ結構デスガ
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 と将軍家もお笑ひになりながら昨日の相州さまの一言をそつくり真似ておつしやつて、それから、故右大将家の御帰依浅からざりし相模国の大日堂がひどく荒れはててゐるやうですから即刻修理させるやうお取計ひ下さい、とちよつと方面のちがつた事を優しい口調で仰出されました。武道も大事だが敬神崇仏の念もなほざりにせぬやうとの、いましめのお心からおつしやつたのかも知れません。相模守さまは、あはははと愉快さうにお笑ひになり、おそれいりました、と言つて退出なさいましたが、下々の言葉でいへば、あざやかに一本やられた、といふところでもございませうか。ご自身その国の国司たる相模国の事だけに、相州さまも、ひとしほ恐れいつたことでございませう。お二人の応酬は、いつもこのやうに軽く、水際立つて罪が無く、巷間に言ひ伝へられてゐるやうな陰鬱な反目など私たちにはさつぱり見受けられませんでした。翌々日の七日には、御ところに於いて御酒宴がございました。将軍家は、賑やかな事がお好きでございましたから、何かにつけて宴をおひらきなされて、皆の遊びたはむれる様をしんから楽しさうに、にこにこ笑つて眺めて居られます。その日は、四日の弓の試合で負けたはうの人たちが、勝つた人たちにごちそうするといふ事になつてゐて、将軍家もそれは面白からうと御自身も皆に御酒肴をたまはり宴をいよいよさかんになさいましたので、その夜の御宴は笑ふもの、舞ふもの、ののしるもの、或いはまた、わけもなく酔ひ泣きするもの、たはむれの格闘をするもの、いつものお歌や管絃の御宴とは違つて活気横溢して、将軍家には、このやうな狼藉の宴もまた珍らしく、風変りの興をお覚えになるらしく、常に無くお酒をすごされ、かたはらの相州さま広元入道さまを相手に軽い御冗談なども仰せられてたいへん御機嫌の御様子でございました。
「それにつけても、」とあまりお酒のお好きでない広元入道さまは、きよろりとあたりを見廻し、「弓の勝負のあとの御酒宴とはいへ、少し狼藉がすぎますな。」と品よく苦笑しながらおつしやいました。
「これくらゐでいいのです。」と相州さまは、大きくあぐらをかいて盃をふくみながら一座の喧騒のさまを心地よげに眺めて居られました。「これでいいのです。」
「どうも私は宴会は苦手で、」と入道さまはちらと将軍家のはうを見て、「武芸のあとの酒盛りならまあ意味もあつて、我慢も出来るといふものでございますが、なんともつかぬ奇妙な御酒宴もこのごろは、たくさんあつて。」と老いの愚痴みたいな調子で眉をひそめておつしやるのでした。けれども将軍家は、何もお気づかぬ御様子で、ただにこにこ笑つておいででした。
「しかし、」と相州さまはひとりごとのやうに、ぼんやりおつしやいました。「婦女子を相手の酒もまた、やめられぬものです。」
「さうでせうか、」と入道さまは頬にかすかな笑ひを浮べて一膝のり出しました。いつもそのお言葉に裏のある入道さまのことでございますから、その時にもいつたいどんな事をおつしやりたい御本心だつたのか、私には見当もつきませんでした。「あなたも、ひどく御風流になられましたな。酒は士気を旺盛にするためのものとばかり、私は聞いて居りましたが、いろいろとまたその他にも、酒の功徳があるものらしい。」
 その時、将軍家は静かに独り言のやうにおつしやいました。
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酒ハ酔フタメノモノデス。ホカニ功徳ハアリマセヌ。
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 さうして、よろよろとお立ちに
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