なつて奥へお引上げになられ、相州さまと入道さまとは、互ひにちらりと、けれども鋭く眼くばせをなさいました。それだけの事が、後になつてひどく大袈裟に喧伝されて、なんでも将軍家は相州さまと入道さまに、風流を捨て武芸にお心を用ゐられるやう、こんこんといさめられたさうだ等といふ噂のもとになつてしまつたのでございます。入道さまはともかく、相州さまは将軍家のすぐれたお生れつきを、誰よりもよくご存じの筈で、将軍家がわづか十二歳のお若さを以て関東の長者となられ征夷大将軍の宣旨を賜り、翌年すでに御みづから地頭職の訴へを聞き、それはもちろん相州さまや入道さまがお傍に仕へて御助言なさつたからでもございませうが、後年にいたつても、お心をまづもつて人民の訴訟に用ゐられ、奉行を督して裁判の留滞を避けしめ、また奉行たちをおのおのその領国に派遣して所在に人民の訴訟を聴き出訴の煩を無からしめようと計り、さらに将軍家への直訴をもこのお方の御時にはじめてお許しに相成り、いちいちその訴へをあざやかにお裁きになつたといふほどの天稟の御英才を相州さまともあらうお方がわからぬなどといふ事はございませぬ。こんこんと諫言、などといふ噂を当の相州さまがお耳にしたら、驚き苦笑ひなさる事でせう。将軍家の天衣無縫に近い御人柄に対しては、あれほどの相州さまも何とも申し上げる余地がなかつたのではなからうかと私には思はれるのでございます。こんこんと諷諫どころか、その大宴会から七日すぎて、十一月の十四日に、こんどはあべこべに相州さまが将軍家にそれこそ本当にこんこんと教へさとされたのでございますから、妙なものでございました。五十に近い分別盛りの相州さまが、まだ十八歳の将軍家に、おだやかにさとされて一言も無いといふ図はなんともうれしく有難く、いま思つてもこの胸がせいせい致します。それも決して将軍家が相州さまに対して御自身の怨をはらさうなどといふ浅墓なお心からではなく、ただ正しい道理を凜然と御申渡しになつただけの事で、その事に就いては、前にも幾度となく繰返して申し上げましたが、将軍家の御胸中はいつも初夏の青空の如く爽やかに晴れ渡り、人を憎むとか怨むとか、怒るとかいふ事はどんなものだか、全くご存じないやうな御様子で、右は右、左は左と、無理なくお裁きになり、なんのこだはる所もなく皆を愛しなされて、しかも深く執着するといふわけでもなく水の流れるやうにさらさらと自然に御挙止なさつて居られたのでございますから、その日、相州さまに仰せられたことも、ほかの意味など少しもなく、ただ、あの御霊感のままにきつぱりおつしやつただけのことと私は固く信じて居ります。
相州さまがその年来の郎従の中で、特に功労のあつたものをこんど侍に取り立てたい、それに就いておゆるしを得たく参上いたしましたと気軽に将軍家へ申し上げたところが、将軍家はにつこりお笑ひになつて、
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考ヘテミマシタカ
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「え、何事でございませう。」と相州さまは、きよとんとして居られました。
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ダメデス
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「はあ?」と相州さまはただ目を丸くして居られました。なんでもないお願ひとばかりお思ひになつてゐたのでございませう。
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子孫ガソノ上ノ慾ヲオコシマス
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凜乎たる御口調でございました。相州さまも思はずはつとお手をおつきになりました。将軍家はさらにお言葉を続けられ、郎従をその功に依り侍に取り立ててやるならば、その者一代のうちは主の恩に感奮しさらに忠勤をはげむといふ事にもなるでせうが、その子その孫の代にいたり、昔、郎従なりしを特に異常の恩典に依りどうやら侍に取り立てられたのだといふ大切の事情も忘れ、更にその上の御家人になり御ところへも上つてみたい、まつりごとにもあづかつてみたい等と、とんでもない慾を起すものですから、それは必ずそのやうな野心を起すやうになるものですから、幕政の混乱の基にもなりかねない事ですから、とそれこそ、こんこんと相州さまにおさとしなされたのでございます。
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コレカラモアル事デス。永久ニ、コレハ、許サヌコトニイタシマス。
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お声もさはやかに御申渡しになり、少し間を置いて、お胸に何か浮んだらしく、うつむいてくすくすとお笑ひになり、
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管絃ノハウガイイヤウデス
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とおつしやいました。相州さまもほつとしたやうに、あたりを見廻しながら声高くお笑ひになつて、
「弓馬の薦めがたたりましたかな。」とおつしやつたのに、間髪をいれず、
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ソレモアリマス
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あざやかなものでございました。もちろんそ
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