い名前であつた。妻がその男のことを語つてゐるうちに、おれは手段でなく妻を抱擁した。これは、みじめな愛慾である。同時に眞實の愛情である。妻は、つひに、六度ほど、と吐きだして聲を立てて泣いた。
 その翌る朝、妻はほがらかな顏つきをしてゐた。あさの食卓に向ひ合つて坐つたとき、妻はたはむれに、兩手あはせておれを拜んだ。おれも陽氣に下唇を噛んで見せた。すると妻はいつそうくつろいだ樣子をして、くるしい? とおれの顏を覗いたでないか。おれは、すこし、と答へた。
 おれは君に知らせてやりたい。どんな永遠のすがたでも、きつと卑俗で生野暮なものだといふことを。
 その日を、おれはどうして過したか、これも君に教へて置かう。
 こんなときには、妻の顏を、妻の脱ぎ捨ての足袋を、妻にかかはり合ひのある一切を見てはいけない。妻のそのわるい過去を思ひ出すからといふだけでない。おれと妻との最近までの安樂だつた日を追想してしまふからである。その日、おれはすぐ外出した。ひとりの少年の洋畫家を訪れることにきめたのである。この友人は獨身であつた。妻帶者の友人はこの場合ふむきであらう。
 おれはみちみち、おれの頭腦がからつぽにな
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