武技を発揮した。小才だけでは、どうにもならぬ。武術の達人には落ちつきがある。この落ちつきがなければ、男子はどんな仕事もやり了《おお》せる事が出来ない。伊藤博文だって、ただの才子じゃないのですよ。いくたびも剣《つるぎ》の下をくぐって来ている。智慧《ちえ》のかたまりのように言われている勝海舟だって同じ事です。武術に練達していなければ、絶対に胆《きも》がすわらない。万巻の書を読んだだけでは駄目だ。坊主だってそうです。偉い宗教家は例外なく腕力が強い。文覚上人の腕力は有名だが、日蓮だって強そうじゃないか。役者だってそうです。名人と言われるほどの役者には、必ず武術の心得があったものです。その日常生活に於て、やたらに腕力をふるうのは、よろしくないが、けれどもひそかに武技を練磨し、人に知られず剣道七段くらいの腕前になっていたら、いいだろうなあ。(先生も、学生も、そろって深い溜息《ためいき》をもらせり。)いや、しかし之は、閑人のあこがれに終らせてはいけない。諸君は、今日これから直ちに道場へ通わなければならぬ。思う念力、岩をもとおす。私は、もはや老齢で、すでに手おくれかも知れぬが、いや、しかし私だって、――(口を噤《つぐ》んだ。けれども、何か心に深く決するところがあるらしく察せられた。)

     二

 このたびの黄村先生の、武術に就《つ》いての座談は、私の心にも深くしみるものがあった。男はやっぱり最後は、腕力にたよるより他は無いもののようにも思われる。口が達者で図々《ずうずう》しく、反省するところも何も無い奴には、ものも言いたくないし、いきなり鮮やかな背負投げ一本くらわせて、そいつのからだを大きく宙に一廻転させ、どたん、ぎゃっという物音を背後に聞いて悠然と引上げるという光景は、想像してさえ胸がすくのである。歌人の西行《さいぎょう》なども、強かったようだ。荒法師の文覚《もんがく》が、西行を、きざな奴だ、こんど逢《あ》ったら殴ってやろうと常日頃から言っていた癖に、いざ逢ったら、どうしても自分より強そうなので、かえって西行に饗応《きょうおう》したとかいう話も伝わっているほどである。まことに黄村先生のお説のとおり、文人にも武術の練磨が大いに必要な事かも知れない。私が、いつも何かに追われているように、朝も昼も夜も、たえずそわそわして落ちつかぬのは、私の腕力の貧弱なのがその最大理由の一つだったのであろうか。私は暗い気がした。私は五、六年前から、からだの調子を悪くして、ピンポンをやってさえ発熱する始末なのである。いまさら道場へかよって武技を練るなどはとても出来そうもないのである。私は一生、だめな男なのかも知れない。それにしても、あの鴎外がいいとしをして、宴会でつかみ合いの喧嘩《けんか》をしたとは初耳である。本当かしら。黄村先生は、記録にちゃんと残っている、と断言していたが、出鱈目《でたらめ》ではなかろうか。私は半信半疑で鴎外全集を片端から調べてみた。しかるに果してそれは厳然たる事実として全集に載っているのを発見して、さらに私は暗い気持になってしまった。あんな上品な紳士然たる鴎外でさえ、やる時にはやったのだ。私は駄目だ。二、三年前、本郷三丁目の角で、酔っぱらった大学生に喧嘩を売られて、私はその時、高下駄《たかげた》をはいていたのであるが、黙って立っていてもその高下駄がカタカタカタと鳴るのである。正直に白状するより他は無いと思った。
「わからんか。僕はこんなに震えているのだ。高下駄がこんなにカタカタと鳴っているのが、君にはわからんか。」
 大学生もこれには張合いが抜けた様子で、「君、すまないが、火を貸してくれ。」と言って私の煙草《たばこ》から彼の煙草に火を移して、そのまま立去ったのである。けれども流石《さすが》に、それから二、三日、私は面白くなかった。私が柔道五段か何かであったなら、あんな無礼者は、ゆるして置かんのだが、としきりに口惜しく思ったものだ。けれども、鴎外は敢然とやったのだ。全集の第三巻に「懇親会」という短篇がある。
(前略)
 此時《このとき》座敷の隅を曲って右隣の方に、座蒲団《ざぶとん》が二つ程あいていた、その先の分の座蒲団の上へ、さっきの踊記者が来て胡坐《あぐら》をかいた。横にあった火鉢を正面に引き寄せて、両手で火鉢の縁を押えて、肩を怒らせた。そして顋《あご》を反《そ》らして斜に僕の方を見た。傍へ来たのを見れば、褐色の八字|髭《ひげ》が少しあるのを、上に向けてねじってある。今初めて見る顔である。
 その男がこう云った。
「へん、気に食わない奴だ。大沼なんぞは馬鹿だけれども剛直な奴で、重りがあった。」
 こう言いながら、火鉢を少し持ち上げて、畳を火鉢の尻で二、三度とんとんと衝《つ》いた。大沼の重りの象徴にする積《つも》りと見える。
「今度の奴は
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