生利に小細工をしやがる。今に見ろ、大臣に言って遣《や》るから。(間。)此間委員会の事を聞きに往ったとき、好くも幹事に聞けなんと云って返したな。こん度逢ったら往来へ撮《つま》み出して遣る。往来で逢ったら刀を抜かなけりゃならないようにして遣る。」
左隣の謡曲はまだ済まない。(中略)右の耳には此脅迫の声が聞えるのである。僕は思い掛けない話なので、暫《しばら》くあっけに取られていた。(中略)そして今度逢ったらを繰り返すのを聞いて、何の思索の暇もなくこう云った。
「何故今遣らないのだ。」
「うむ。遣る。」
と叫んで立ち上がる。
以上は鴎外の文章の筆写であるが、これが喧嘩のはじまりで、いよいよ組んづほぐれつの、つかみ合いになって、
(中略)
彼は僕を庭へ振り落そうとする。僕は彼の手を放すまいとする。手を引き合った儘《まま》、二人は縁から落ちた。
落ちる時手を放して、僕は左を下に倒れて、左の手の甲を花崗岩で擦《す》りむいた。立ち上がって見ると、彼は僕の前に立っている。
僕には此時始めて攻勢を取ろうという考が出た。併《しか》し既に晩《おそ》かった。
座敷の客は過半庭に降りて来て、別々に彼と僕とを取り巻いた。彼を取り巻いた一群は、植込の間を庭の入口の方へなだれて行く。
四五人の群が僕を宥《なだ》めて縁から上がらせた。左の手の甲が血みどれになっているので、水で洗えと云う人がある。酒で洗えと云う人がある。近所の医者の処へ石炭酸水を貰いに遣れと云う人がある。手を包めと云って紙を出す。手拭を出す。(中略)
鴎外の描写は、あざやかである。騒動が、眼に見えるようだ。そうしてそれから鴎外は、「皆が勧めるから嫌な酒を五六杯飲んだ。」と書いてある。顔をしかめて、ぐいぐい飲んだのであろう。やけ酒に似ている。この作品発表の年月は、明治四十二年五月となっている。私たちの生れない頃である。鴎外の年譜を調べてみると、鴎外はこの時、四十八歳である。すでにその二年前の明治四十年、十一月十五日に陸軍々医総監に任ぜられ、陸軍省医務局長に補せられている。その前年の明治三十九年に、功三級に叙せられ、金鵄勲章《きんしくんしょう》を授けられ、また勲二等に叙せられ、旭日重光章を授けられているのである。自重しなければならぬ人であったのに、不良少年じみた新聞記者と、
「何故今遣らないのだ。」
「うむ。遣る。」
などと喧嘩をはじめるとは、よっぽど鴎外も滅茶な勇気のあった人にちがいない。この格闘に於いては、鴎外の旗色はあまり芳《かんば》しくなく、もっぱら守勢であったように見えるが、しかし、庭に落ちて左手に傷を負うてからは「僕には、此時始めて攻勢を取ろうという考が出た。」と書いてあるから、凄《すご》い。人がとめなければ、よっぽどやったに違いない。腕に覚えのある人でなければ、このような張りのある文章は書けない。けれども、これは鴎外の小説である。小説は絵空事《えそらごと》と昔からきまっている。ここに書かれてある騒動を、にわかに「事実」として信じるわけには行かない。私は全集の日記の巻を調べてみた。やっぱり在った。
明治四十二年、二月二日(火)。陰りて風なく、寒からず。(中略)夕に赤坂の八百勘に往く。所謂《いわゆる》北斗会とて陸軍省に出入する新聞記者等の会合なり。席上東京朝日新聞記者村山某、小池は愚直なりしに汝は軽薄なりと叫び、予に暴行を加う。予村山某と庭の飛石の間に倒れ、左手を傷く。
これに拠《よ》って見ると、かの「懇親会」なる小説は、ほとんど事実そのままと断じても大過ないかと思われる。私は、おのれの意気地の無い日常をかえりみて、つくづく恥ずかしく淋しく思った。かなわぬまでも、やってみたらどうだ。お前にも憎い敵が二人や三人あった筈《はず》ではないか。しかるに、お前はいつも泣き寝入りだ。敢然とやったらどうだ。右の頬を打たれたなら左の頬を、というのは、あれは勝ち得べき腕力を持っていても忍んで左の頬を差出せ、という意味のようでもあるが、お前の場合は、まるで、へどもどして、どうか右も左も思うぞんぶん、えへへ、それでお気がすみます事ならどうか、あ、いてえ、痛え、と財布だけは、しっかり握って、左右の頬をさんざん殴らせているような図と似ているではないか。そうして、ひとりで、ぶつぶつ言いながら泣き寝入りだ。キリストだって、いざという時には、やったのだ。「われ地に平和を投ぜんために来《きた》れりと思うな、平和にあらず、反《かえ》って剣を投ぜん為に来れり。」とさえ言っているではないか。あるいは剣術の心得のあった人かも知れない。怒った時には、縄切《なわきれ》を振りまわしてエルサレムの宮の商人たちを打擲《ちょうちゃく》したほどの人である。決して、色白の、やさ男ではない。やさ男どころか、或る神学者の説に依る
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