と、筋骨たくましく堂々たる偉丈夫だったそうではないか。虫も殺さぬ大慈大悲のお釈迦《しゃか》さまだって、そのお若い頃、耶輸陀羅《やしゅだら》姫という美しいお姫さまをお妃に迎えたいばかりに、恋敵の五百人の若者たちと武技をきそい、誰も引く事の出来ない剛弓で、七本の多羅樹と鉄の猪を射貫き、めでたく耶輸陀羅姫をお妃にお迎えなさったとかいう事も聞いている。七本の多羅樹と鉄の猪を射透すとは、まことに驚くべきお力である。まったく、それだからこそ、弟子たちも心服したのだ。腕力の強い奴には、どこやら落ちつきがある。と黄村先生もおっしゃった。その落ちつきが、世の人に思慕の心を起させるのだ。源氏が今でも人気があるのは、源氏の人たちが武術に於いて、ずば抜けて強かったからである。頼光をはじめ、鎮西八郎、悪源太義平などの武勇に就いては知らぬ人も無いだろうが、あの、八幡太郎義家でも、その風流、人徳、兵法に於いて優れていたばかりでなく、やはり男一匹として腕に覚えがあったから、弓馬の神としてあがめられているのである。弓は天才的であったようだ。矢継早《やつぎばや》の名人で、機関銃のように数百本の矢をまたたく間にひゅうひゅうと敵陣に射込み、しかも百発百中、というと講談のようになってしまうが、しかし源氏には、不思議なくらい弓馬の天才が続々とあらわれた事だけは本当である。血統というものは恐ろしいものである。酒飲みの子供は、たいてい酒飲みである。頼朝だって、ただ猜疑心《さいぎしん》の強い、攻略一ぽうの人ではなかった。平治の乱に破れて一族と共に東国へ落ちる途中、当時十三歳の頼朝は馬上でうとうと居睡りをして、ひとり、はぐれた。平治物語に拠ると、「十二月二十七日の夜更方の事なれば、暗さは暗し、先も見えねども、馬に任せて只一騎、心細く落ち給う。森山の宿に入り給えば、宿の者共云いけるは、『今夜馬の足音繁く聞ゆるは、落人にやあるらん、いざ留めん』とて、沙汰人|数多《あまた》出でける中に、源内兵衛真弘《げんないひょうえさねひろ》と云う者、腹巻取って打ち懸け、長刀持ちて走り出でけるが、佐殿《すけどの》を見奉り、馬の口に取り附き、『落人をば留め申せと、六波羅より仰せ下され給う』とて既に抱き下し奉らんとしければ、鬚切《ひげきり》の名刀を以て抜打にしとど打たれければ、真弘が真向二つに打ち割られて、のけに倒れて死ににけり。続いて出でける男は、『しれ者かな』とて馬の口に取り附く処を、同じ様に斬り給えば、籠手《こて》の覆《おおい》より打ちて、打ち落されて退きにけり。その後、近附く者もなければ、云々。」とあって、未だ十三歳と雖《いえど》も、その手練の程は思いやられる。私が十三歳の時には、女中から怪談を聞かされて、二、三夜は、ひとりで便所へ行けなかった。冗談ではない。実に、どうにも違い過ぎる。武人が武術に長じているのは自然の事でもあるが、しかし、文人だって、鴎外などはやる時には大いにやった。「僕の震えているのが、わからんか。」などという妙な事を口走ってはいないのである。つかみ合って庭へ落ちて、それから更に改めて攻勢に転じようとしたのである。漱石だって銭湯で、無礼な職人をつかまえて、馬鹿野郎! と呶鳴って、その職人にあやまらせた事があるそうだ。なんでも、その職人が、うっかり水だか湯だかを漱石にひっかけたので、漱石は霹靂《へきれき》の如き一喝を浴びせたのだそうである。まっぱだかで呶鳴ったのである。全裸で戦うのは、よほど腕力に自信のある人でなければ出来る芸当でない。漱石には、いささか武術の心得があったのだと断じても、あながち軽忽《けいこつ》の罪に当る事がないようにも思われる。漱石は、その己の銭湯の逸事を龍之介に語り、龍之介は、おそれおののいて之《これ》を世間に公表したようであるが、龍之介は漱石の晩年の弟子であるから、この銭湯の一件も、漱石がよっぽど、いいとしをしてからの逸事らしい。立派な口髭《くちひげ》をはやしていたのだ。かの鴎外にしても立派な口髭をはやして軍医総監という要職にありながら、やむにやまれず、不良の新聞記者と戦って共に縁先から落ちたのだ。私などは未だ三十歳を少し越えたばかりの群小作家のひとりに過ぎない。自重もくそも、あるもんか。なぜ、やらないのだ。実は、からだが少し、などと病人づらをしようたって駄目だ。むかしの武士は、血を吐きながらでも道場へかよったものだ。宮本武蔵だって、病身だったのだ。自分の非力を補足するために、かの二刀流を案出したとかいう話さえ聞いている。武蔵の「独行道」を読んだか。剣の名人は、そのまま人生の達人だ。
一、世々の道に背《そむ》くことなし。
二、万《よろ》ず依怙《えこ》の心なし。
三、身に楽をたくまず。
四、一生の間欲心なし。
五、我事に於て後悔せず。
六、善悪につ
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