ししようかどうしようかと玄関の内で傘を抱いたままうろうろしているのですね。あれは実に可愛かった。私はあの若侍を嫉妬《しっと》しました。女は、あのようでなければいけない。若い男のお客さんにお茶を差出す時なんか、緊張のあまり、君たちの言葉を遣《つか》えば、つまり、意識過剰という奴をやらかして、お茶碗をひっくり返したりする実に可愛い娘さんがいるものだが、あんなのが、まあ女性の手本と言ってよい。男は何かというと、これは、私も最近ようやく気附いた事で、この大発見を諸君に易々と打明けるのは惜しいのであるが、(そうおっしゃらずに、へへ、と言いし学生あり。師を軽んずるは古来、文科学生の通弊とす。)ただいま期せずして座の一隅より、切望懇願のうめき声が発せられたようでもあり、まあ致しかた無い、御伝授しましょう。男子の真価は、武術に在り! (一座色をなせり。逃仕度《にげじたく》せし臆病の学生もあった。)強くなくちゃいけない。柔道五段、剣道七段、あるいは弓術でも、からて術でも、銃剣術でも、何でもよいが、二段か三段くらいでは、まだ心細い。すくなくとも、五段以上でなければいけない。愚かな意見とお思いの方もあるだろうが、たとい国の平和な時でも、男子は常に武術の練磨に励まなければいかなかったのだ。科学者たらんとする者も、政治家たらんとする者も、また宗教家、あるいは、そこに(速記者のほうを、ぐいと顎《あご》でしゃくって、)いらっしゃる芸術家の卵にしても、まず第一に、武術の練磨に努めなければならなかったのに、うかつにも之《これ》を怠っていたので、ごらんのとおり皆さん例外なく卑屈である。怒り給うな。私だって諸君と同じ事です。私は過去に於いて、政治運動をした事もある。演劇の団体に関係した事もある、工場を経営した事もある、胃腸病の薬を発明した事もある、また、新体詩というものを試みた事だってある。けれども、一つとして、ものにならなかった。いつもびくびくして、自己の力を懐疑し、心の落ちつく場所は無く、お寺へかよって禅を教えてもらったり、或《ある》いは部屋に閉じこもって、手当り次第、万巻いや千巻くらいの書を読みちらしたり、大酒を飲んだり、女に惚れた真似をしたり、さまざまに工夫してみたのであるが、どうしても自分の生き方に自信を持てなかった。新劇の運動に参加しても、すぐに、これでいいのか、という疑問が生じて、それこそ三日経てば、いやになったほうです。何か自分に根本的な欠陥があるのではないか、と沈思の末、はたと膝を打った。武術! これであります。私は男子の最も大事な修行を忘れていたのでした。男子は、武術の他には何も要らない。男子の一生は戦場です。諸君が、どのような仕事をなさるにしても、腕に覚えがなくてはかなわぬ。何がおかしい。私は、真面目に言っているのです。腕力の弱い男子は、永遠に世の敗北者です。人と対談しても、壇上にて憂国の熱弁を振うにしても、また酒の店でひとりで酒を飲んでいる時でも、腕に覚えの無い男は、どこやら落ちつかず、いやらしい眼つきをして、人に不快の念を生じさせ、蔑視《べっし》せられてしまうものです。文学の場合だって同じ事だ。(ぎょろりと速記者を、にらむのである。)文学と武術とは、甚だ縁の遠いもので、青白く、細長い顔こそ文学者に似つかわしいと思っているらしい人もあるようだが、とんでもない。柔道七段にでもなって見なさい。諸君の作品の悪口を言うものは、ひとりも無くなります。あとで殴られる事を恐れて悪口を言わないのではない。諸君の作品が立派だからである。そこにいらっしゃる先生(と、またもや、ぐいと速記者のほうを顎でしゃくって、)その先生の作品などは、時たま新聞の文芸欄で、愚痴《ぐち》といやみだけじゃないか、と嘲笑《ちょうしょう》せられているようで、お気の毒に思っていますが、それもまたやむを得ない事で、今まで三十何年間、武術を怠り、精神に確固たる自信が無く、きょうは左あすは右、ふらりふらりと千鳥足の生活から、どんな文芸が生れるか凡《およ》そわかり切っている事です。いまからでも柔道あるいは剣道の道場へ通うようにするがいい。本当に笑いごとではないのです。明治大正を通じて第一の文豪は誰か。おそらくは鴎外、森林太郎博士であろうと思う。あのひとなどは、さすがに武術のたしなみがあったので、その文章にも凜乎《りんこ》たる気韻《きいん》がありましたね。あの人は五十ちかくなって軍医総監という重職にあった頃でも、宴会などに於いて無礼者に対しては敢然と腕力をふるったものだ。(まさか、という声あり。)いや、記録にちゃんと残っています。くんづほぐれつの大格闘を演じたものだ。鴎外なおかくの如し。いわんや、古来の大人物は、すべて腕力が強かった。ただの学者、政治家と思われている人でも、いざという時には、非凡な
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