でも死にたくて、うろうろ死場所を捜し廻っているのは自分勝手のわがままで、ああ、この一箇条もやっぱり駄目なり。
十七、老後の財宝所領に心掛けるどころか、目前の日々の暮しに肝胆を砕いている有様で苦笑の他は無いが、けれども、老後あるいは私の死後、家族の困らぬ程度の財産は、あったほうがよいとひそかに思っている。けれども、財産を遺すなどは私にとって奇蹟《きせき》に近い。財産は無くとも、仕事が残っておれば、なんとかなるんじゃないかしら、などと甘い、あどけない空想をしているんだから之《これ》も落第。
十八、苦しい時の神だのみさ。もっとも一生くるしいかも知れないのだから、一生、神仏を忘れないとしても、それだって神仏を頼むほうだ。剣聖の心境に背馳《はいち》すること千万なり。
十九、恥ずかしながらわが敵は、廚房《ちゅうぼう》に在り。之をだまして、怒らせず、以てわが働きの貧しさをごまかそうとするのが、私の兵法の全部である。之と争って、時われに利あらず、旗を巻いて家を飛び出し、近くの井の頭公園の池畔をひとり逍遥《しょうよう》している時の気持の暗さは類が無い。全世界の苦悩をひとりで背負っているみたいに深刻な顔をして歩いて、しきりに夫婦喧嘩の後始末に就いて工夫をこらしているのだから話にならない。よろず、ただ呆れたるより他のことは無しである。
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 剣聖の書遺した「独行道」と一条ずつ引較べて読んでみて下さい。不真面目な酔いどれ調にも似ているが、真理は、笑いながら語っても真理だ。この愚者のいつわらざる告白も、賢明なる読者諸君に対して、いささかでも反省の資料になってくれたら幸甚である。幼童のもて遊ぶ伊呂波歌留多にもあるならずや、ひ、人の振り見てわが振り直せ、と。

     三

 とにかく、私は、うんざりしたのだ。どうにも、これでは、駄目である。まるで、見込みが無いのである。男は、武術。之の修行を怠っている男は永遠に無価値である、と黄村先生に教え諭《さと》され、心にしみるものがあり、二、三の文献を調べてみても、全くそのとおり、黄村先生のお説の正しさが明白になって来るばかりであったが、さて、ひるがえってわが身の現状を見つめるならば、どうにも、あまりにひどい。一つとして手がかりの無い儼然《げんぜん》たる絶壁に面して立った気持で、私は、いたずらに溜息をもらすばかりであった。私の家の近所に整骨院があって、そこの主人は柔道五段か何かで、小さい道場も設備せられてある。夕方、職場から帰った産業戦士たちが、その道場に立寄って、どたんばたんと稽古をしている。私は散歩の途中、その道場の窓の下に立ちどまり、背伸びしてそっと道場の内部を覗《のぞ》いてみる。実に壮烈なものである。私は、若い頑強の肉体を、生れてはじめて、胸の焼け焦げる程うらやましく思った。うなだれて、そのすぐ近くの禅林寺に行ってみる。この寺の裏には、森鴎外の墓がある。どういうわけで、鴎外の墓が、こんな東京府下の三鷹町にあるのか、私にはわからない。けれども、ここの墓地は清潔で、鴎外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかも知れないと、ひそかに甘い空想をした日も無いではなかったが、今はもう、気持が畏縮《いしゅく》してしまって、そんな空想など雲散霧消した。私には、そんな資格が無い。立派な口髭《くちひげ》を生やしながら、酔漢を相手に敢然と格闘して縁先から墜落したほどの豪傑と、同じ墓地に眠る資格は私に無い。お前なんかは、墓地の択《え》り好みなんて出来る身分ではないのだ。はっきりと、身の程を知らなければならぬ。私はその日、鴎外の端然たる黒い墓碑をちらと横目で見ただけで、あわてて帰宅したのである。家へ帰ると、一通の手紙が私を待受けていた。黄村先生からのお便りである。ああ、ここに先駆者がいた。私たちの、光栄ある悲壮の先駆者がいたのだ。以下はそのお便りの全文である。
 前略。その後は如何《いかが》。老生ちかごろ白氏の所謂《いわゆる》、間事《かんじ》を営み自ら笑うの心境に有之候《これありそうろう》。先日おいでの折、男子の面目は在武術と説き、諸卿《しょけい》の素直なる御賛同を得たるも、教訓する者みずから率先《そっせん》して実行せざれば、あたら卓説も瓦礫《がれき》に等しく意味無きものと相成るべく、老生もとより愚昧《ぐまい》と雖《いえど》も教えて責を負わざる無反省の教師にては無之《これなく》、昨夕、老骨奮起一番して弓の道場を訪れ申候。悲しい哉《かな》、老いの筋骨亀縮して手足十分に伸び申さず、わななきわななき引きしぼって放ちたる矢の的にはとどかで、すぐ目前の砂利の上にぱたりぱたりと落ちる淋しさ、お察し被下度《くだされたく》候。南無八幡《なむはちまん》! と瞑目《めいもく》し
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