て深く念じて放ちたる弦は、わが耳をびゅんと撃ちて、いやもう痛いのなんの、そこら中を走り狂い叫喚《きょうかん》したき程の劇痛《げきつう》に有之候えども、南無八幡! とかすれたる声もて呻《うめ》き念じ、辛じて堪え忍ぶ有様に御座候。然《しか》れども、之を以て直ちに老生の武術に於ける才能の貧困を云々するは早計にて、嘗《か》つて誰か、ただ一日の修行にて武術の蘊奥《うんおう》を極め得たる。思う念力、岩をもとおすためしも有之、あたかも、太原の一男子自ら顧るに庸且つ鄙たりと雖も、たゆまざる努力を用いて必ずやこの老いの痩腕に八郎にも劣らぬくろがねの筋をぶち込んでお目に掛けんと固く決意仕り、ひとり首肯してその夜の稽古は打止めに致し、帰途は鳴瀬医院に立寄って耳の診察を乞い、鼓膜《こまく》は別に何ともなっていませんとの診断を得てほっと致し、さらに勇気百倍、阿佐ヶ谷の省線踏切の傍なる屋台店にずいとはいり申候。酒不足の折柄、老生もこのごろは、この屋台店の生葡萄酒にて渇を医《いや》す事に致し居候。四月なり。落花紛々の陽春なり。屋台の裏にも山桜の大木三本有之、微風吹き来る度毎に、おびただしく花びらこぼれ飛び散り、落花|繽紛《ひんぷん》として屋台の内部にまで吹き込み、意気さかんの弓術修行者は酔わじと欲するもかなわぬ風情、御賢察のほど願上候《ねがいあげそうろう》。然るに、ここに突如として、いまわしき邪魔者の現れ申候。これ老生の近辺に住む老画伯にして、三十年続けて官展に油画を搬入し、三十年続けて落選し、しかもその官展に反旗をひるがえす程の意気もなく、鞠躬如《きっきゅうじょ》として審査の諸先生に松蕈《まつたけ》などを贈るとかの噂《うわさ》も有之、その甲斐《かい》もなく三十年連続の落選という何の取りどころも無き奇態の人物に御座候えども、父祖伝来のかなりの財産を後生大事に守り居る様子にて、しかしながら人間の価値その財産に依って決定せらるべきものならば老生は只今、割腹し果申すべし、杉田老画伯の如きは孫の数人もありながら赤き襟飾《えりかざり》など致して、へんに風態を若々しく装い、以《もっ》て老生を常日頃より牽制せんとする意図極めてあらわに見え申候。これまた笑止千万の事にて、美々しき服装、われに於いて何のうらやましき事も無之、全く黙殺し去らんと心掛申候えども、この人物は身のたけ六尺、顔面は赤銅色に輝き腕の太さは松の大木の如く、近所の質屋の猛犬を蹴殺したとかの噂も仄聞《そくぶん》致し居り、甚だ薄気味わるく御座候えば、老生はこの人物に対しては露骨に軽侮《けいぶ》の色を示さず、常に技巧的なる笑いを以て御挨拶申上げ居り候。しかるに今この怪人物、ぬっと屋台店に這入《はい》り来り、やあ老人、やってるな、と叫び候。かれ既に少しく酔っている様子に見え候えども、老人やってるな、とはぶしつけな奴と内心ひそかに呆《あき》れ申候。お手前だって、やはり老人には候わずや。武士は相見互いという事あるを知らずや。心無き振舞いかな、と老生少しく苦々しく存じ居り候ところに、またもや、老人もこのごろは落ちましたな、こんな店でとぐろを巻いているとは知らなかった、と例の人を見くだすが如き失敬の態度にて老生を嘲笑《ちょうしょう》仕《つかまつ》り候。老生は蛇では御座らぬ。とぐろとは無礼千万なりと思えども、相手は身のたけ六尺、松の木の腕なれば、老生もじっと辛抱仕り候て、あいまいの笑いを口辺に浮べ、もっぱら敬遠の策を施し居り候。しかるに杉田老画伯は調子に乗り、一体この店には何があるのだ、生葡萄酒か、ふむ、ぶていさいなものを飲んでいやがる、おやじ、おれにもその生葡萄酒ちょうものを一杯ついでもらいたい、ふむ、これが生葡萄酒か、ぺっぺ、腐った酢《す》の如きものじゃないか、ごめんこうむる、あるじ勘定をたのむ、いくらだ、とわれを嘲弄《ちょうろう》せんとする意図あからさまなる言辞を吐き、帰りしなにふいと、老人、気をつけ給え、このごろ不良の学生たちを大勢集めて気焔《きえん》を揚げ、先生とか何とか言われて恐悦がっているようだが、汝は隣組の注意人物になっているのだぞ、老婆心ながら忠告致す、と口速に言いてすなわち之《これ》が捨台詞《すてぜりふ》とでも称すべきものならんか、屋台の暖簾《のれん》を排して外に出でんとするを、老生すかさず、待て! と叫喚して押止め申候。われは隣組常会に於いて決議せられたる事項にそむきし事ただの一度も無之、月々に割り当てられたる債券は率先して購入仕り、また八幡宮に於ける毎月八日の武運長久の祈願には汝等と共に必ず参加申上候わずや、何を以てか我を注意人物となす、名誉毀損なり、そもそも老婆心の忠告とは古来、その心裡の卑猥《ひわい》陋醜《ろうしゅう》なる者の最後に試みる牽制の武器にして、かの宇治川先陣、佐々木の囁《ささや》きに徴
前へ
次へ
全10ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング