節子に手渡した。
「行っておくれ。」
節子はうなずいて身支度をはじめた。節子はそのとしの春に、女学校を卒業していた。粗末なワンピースを着て、少しお化粧して、こっそり家を出た。
井の頭。もう日が暮れかけていた。公園にはいると、カナカナ蝉《ぜみ》の声が、降るようだった。御殿山。宝亭は、すぐにわかった。料亭と旅館を兼ねた家であって、老杉に囲まれ、古びて堂々たる構えであった。出て来た女中に、鶴見がいますか、妹が来たと申し伝えて下さい、と怯《お》じずに言った。やがて廊下に、どたばた足音がして、
「や、図星なり、図星なり。」勝治の大きな声が聞えた。ひどく酔っているらしい。「白状すれば、妹には非ず。恋人なり。」まずい冗談である。
節子は、あさましく思った。このまま帰ろうかと思った。
ランニングシャツにパンツという姿で、女中の肩にしなだれかかりながら勝治は玄関にあらわれた。
「よう、わが恋人。逢《あ》いたかった。いざ、まず。いざ、まず。」
なんという不器用な、しつっこいお芝居なんだろう。節子は顔を赤くして、そうして仕方なしに笑った。靴を脱ぎながら、堪えられぬ迄《まで》に悲しかった。こんどもま
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