るように見えた。母だけが、勝治の将来に就いて気をもんでいるように見えた。けれども、こんど、勝治の卒業を機として、父が勝治にどんな生活方針を望んでいたのか、その全部が露呈せられた。まあ、普通の暮しである。けれども、少し頑固すぎたようでもある。医者になれ、というのである。そうして、その他のものは絶対にいけない。医者に限る。最も容易に入学できる医者の学校を選んで、その学校へ、二度でも三度でも、入学できるまで受験を続けよ、それが勝治の最善の路《みち》だ、理由は言わぬが、あとになって必ず思い当る事がある、と母を通じて勝治に宣告した。これに対して勝治の希望は、あまりにも、かけ離れていた。
 勝治は、チベットへ行きたかったのだ。なぜ、そのような冒険を思いついたか、或いは少年航空雑誌で何か読んで強烈な感激を味ったのか、はっきりしないが、とにかく、チベットへ行くのだという希望だけは牢固《ろうこ》として抜くべからざるものがあった。両者の意嚮《いこう》の間には、あまりにもひどい懸隔《けんかく》があるので、母は狼狽《ろうばい》した。チベットは、いかになんでも唐突すぎる。母はまず勝治に、その無思慮な希望を放棄し
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