死のプライドだったとは、あわれな話であった。
松やは解雇せられた。勝治の立場は、いよいよ、まずいものになった。勝治は、ほとんど家にいつかなかった。二晩も三晩も、家に帰らない事は、珍らしくなかった。麻雀賭博《マージャンとばく》で、二度も警察に留置せられた。喧嘩《けんか》して、衣服を血だらけにして帰宅する事も時々あった。節子の箪笥《たんす》に目ぼしい着物がなくなったと見るや、こんどは母のこまごました装身具を片端から売払った。父の印鑑を持ち出して、いつの間にやら家の電話を抵当《ていとう》にして金を借りていた。月末になると、近所の蕎麦《そば》屋、寿司《すし》屋、小料理屋などから、かなり高額の勘定書がとどけられた。一家の空気は険悪になるばかりであった。このままでこの家庭が、平静に帰するわけはなかった。何か事件が、起らざるを得なくなっていた。
真夏に、東京郊外の、井《い》の頭《かしら》公園で、それが起った。その日のことは、少しくわしく書きしるさなければならぬ。朝早く、節子に電話がかかって来た。節子は、ちらと不吉なものを感じた。
「節子さんでございますか。」女の声である。
「はい。」少し、ほっとした。
「ちょっとお待ち下さい。」
「はあ。」また、不安になった。
しばらくして、
「節子かい。」と男の太い声。
やっぱり勝治である。勝治は三日ほど前に家を出て、それっきりだったのである。
「兄さんが牢へはいってもいいかい?」突然そんな事を言った。「懲役《ちょうえき》五年だぜ。こんどは困ったよ。たのむ。二百円あれば、たすかるんだ。わけは後で話す。兄さんも、改心したんだ。本当だ。改心したんだ、改心したんだ。最後の願いだ。一生の願いだ。二百円あれば、たすかるんだ。なんとかして、きょうのうちに持って来てくれ。井の頭公園の、な、御殿山の、宝亭というところにいるんだ。すぐわかるよ。二百円できなければ、百円でも、七十円でも、な、きょうのうちに、たのむ。待ってるぜ。兄さんは、死ぬかも知れない。」酔っているようであったが、語調には切々たるものが在った。節子は、震えた。
二百円。出来るわけはなかった。けれども、なんとかして作ってやりたかった。もう一度、兄を信頼したかった。これが最後だ、と兄さんも言っている。兄さんは、死ぬかも知れないのだ。兄さんは、可哀《かわい》そうなひとだ。根からの悪人ではない。悪い仲間にひきずられているのだ。私はもう一度、兄さんを信じたい。
箪笥を調べ、押入れに頭をつっこんで捜してみても、お金になりそうな品物は、もはや一つも無かった。思い余って、母に打ち明け、懇願した。
母は驚愕《きょうがく》した。ひきとめる節子をつきとばし、思慮を失った者の如く、あああと叫びながら父のアトリエに駈け込み、ぺたりと板の間《ま》に坐った。父の画伯は、画筆を捨てて立ち上った。
「なんだ。」
母はどもりながらも電話の内容の一切を告げた。聞き終った父は、しゃがんで画筆を拾い上げ、再び画布の前に腰をおろして、
「お前たちも、馬鹿だ。あの男の事は、あの男ひとりに始末させたらいい。懲役なんて、嘘《うそ》です。」
母は、顔を伏せて退出した。
夕方まで、家の中には、重苦しい沈黙が続いた。電話も、あれっきりかかって来ない。節子には、それがかえって不安であった。堪えかねて、母に言った。
「お母さん!」小さい声だったけれど、その呼び掛けは母の胸を突き刺した。
母は、うろうろしはじめた。
「改心すると言ったのだね? きっと、改心すると、そう言ったのだね?」
母は小さく折り畳んだ百円紙幣を節子に手渡した。
「行っておくれ。」
節子はうなずいて身支度をはじめた。節子はそのとしの春に、女学校を卒業していた。粗末なワンピースを着て、少しお化粧して、こっそり家を出た。
井の頭。もう日が暮れかけていた。公園にはいると、カナカナ蝉《ぜみ》の声が、降るようだった。御殿山。宝亭は、すぐにわかった。料亭と旅館を兼ねた家であって、老杉に囲まれ、古びて堂々たる構えであった。出て来た女中に、鶴見がいますか、妹が来たと申し伝えて下さい、と怯《お》じずに言った。やがて廊下に、どたばた足音がして、
「や、図星なり、図星なり。」勝治の大きな声が聞えた。ひどく酔っているらしい。「白状すれば、妹には非ず。恋人なり。」まずい冗談である。
節子は、あさましく思った。このまま帰ろうかと思った。
ランニングシャツにパンツという姿で、女中の肩にしなだれかかりながら勝治は玄関にあらわれた。
「よう、わが恋人。逢《あ》いたかった。いざ、まず。いざ、まず。」
なんという不器用な、しつっこいお芝居なんだろう。節子は顔を赤くして、そうして仕方なしに笑った。靴を脱ぎながら、堪えられぬ迄《まで》に悲しかった。こんどもま
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