た、兄に、だまされてしまったのではなかろうかと、ふと思った。
 けれども二人ならんで廊下を歩きながら、
「持って来たか。」と小声で言われて、すぐに、れいの紙幣を手渡した。
「一枚か。」兇暴な表情に変った。
「ええ。」声を出して泣きたくなった。
「仕様がねえ。」太い溜息をついて、「ま、なんとかしよう。節子、きょうはゆっくりして行けよ。泊って行ってもいいぜ。淋しいんだ。」
 勝治の部屋は、それこそ杯盤狼藉《はいばんろうぜき》だった。隅に男がひとりいた。節子は立ちすくんだ。
「メッチェンの来訪です。わが愛人。」と勝治はその男に言った。
「妹さんだろう?」相手の男は勘がよかった。有原である。「僕は、失敬しよう。」
「いいじゃないですか。もっとビイルを飲んで下さい。いいじゃないですか。軍資金は、たっぷりです。あ、ちょっと失礼。」勝治は、れいの紙幣を右手に握ったままで姿を消した。
 節子は、壁際に、からだを固くして坐った。節子は知りたかった。兄がいったい、どのような危い瀬戸際に立っているのか、それを聞かぬうちは帰られないと思っていた。有原は、節子を無視して、黙ってビイルを飲んでいる。
「何か、」節子は、意を決して尋ねた。「起ったのでしょうか。」
「え?」振り向いて、「知りません。」平然たるものだった。
 しばらくして、
「あ、そうですか。」うなずいて、「そう言えば、きょうのチルチルは少し様子が違いますね。僕は、本当に、何もわからんのです。この家は、僕たちがちょいちょい遊びにやって来るところなのですが、さっき僕がふらとここへ立ち寄ったら、かれはひとりでもうひどく酔っぱらっていたのです。二、三日前からここに泊り込んでいたらしいですね。僕は、きょうは、偶然だったのです。本当に、何も知らないのです。でも、何かあるようですね。」にこりともせず、落ちつき払ってそういう言葉には、嘘があるようにも思えなかった。
「やあ、失敬、失敬。」勝治は帰って来た。れいの紙幣が、もう右手に無いのを見て、節子には何か、わかったような気がした。
「兄さん!」いい顔は、出来なかった。「帰るわ。」
「散歩でもしてみますか。」有原は澄ました顔で立ち上った。
 月夜だった。半虧《はんかけ》の月が、東の空に浮んでいた。薄い霧が、杉林の中に充満していた。三人は、その下を縫って歩いた。勝治は、相変らずランニングシャツにパンツという姿で、月夜ってのは、つまらねえものだ、夜明けだか、夕方だか、真夜中だか、わかりやしねえ、などと呟《つぶや》き、昔コイシイ銀座ノ柳イ、と呶鳴《どな》るようにして歌った。有原と節子は、黙ってついて歩いて行く。有原も、その夜は、勝治をれいのように揶揄《やゆ》する事もせず、妙に考え込んで歩いていた。
 老杉の陰から白い浴衣を着た小さい人が、ひょいとあらわれた。
「あ、お父さん!」節子は、戦慄《せんりつ》した。
「へええ。」勝治も唸《うな》った。
「散歩だ。」父は少し笑いながら言った。それから、ちょっと有原のほうへ会釈《えしゃく》をして、「むかしは僕たちも、よくこの辺に遊びに来たものです。久しぶりで散歩に来てみたが、昔とそんなに変ってもいないようだね。」
 けれども、気まずいものだった。それっきり言葉もなく、四人は、あてもなくそろそろと歩きはじめた。沼のほとりに来た。数日前の雨のために、沼の水量は増していた。水面はコールタールみたいに黒く光って、波一つ立たずひっそりと静まりかえっている。岸にボートが一つ乗り捨てられてあった。
「乗ろう!」勝治は、わめいた。てれかくしに似ていた。「先生、乗ろう!」
「ごめんだ。」有原は、沈んだ声で断った。
「ようし、それでは拙者《せっしゃ》がひとりで。」と言いながら危い足どりでその舟に乗り込み、「ちゃんとオールもございます。沼を一まわりして来るぜ。」騎虎《きこ》の勢《いきお》いである。
「僕も乗ろう。」動きはじめたボートに、ひらりと父が飛び乗った。
「光栄です。」と勝治が言って、ピチャとオールで水面をたたいた。すっとボートが岸をはなれた。また、ピチャとオールの音。舟はするする滑って、そのまま小島の陰の暗闇に吸い込まれて行った。トトサン、御無事デ、エエ、マタア、カカサンモ。勝治の酔いどれた歌声が聞えた。
 節子と有原は、ならんで水面を見つめていた。
「また兄さんに、だまされたような気が致します。七度《ななたび》の七十倍、というと、――」
「四百九十回です。」だしぬけに有原が、言い継いだ。「まず、五百回です。おわびをしなければ、いけません。僕たちも悪かったのです。鶴見君を、いいおもちゃにしていました。お互い尊敬し合っていない交友は、罪悪だ。僕はお約束できると思うんだ。鶴見君を、いい兄さんにして、あなたへお返し致します。」
 信じていい、生真面
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