みものにしているような図と甚《はなは》だ似ていた。
「チルチルは、ピタゴラスの定理って奴を知ってるかい。」
「知りません。」勝治は、少ししょげる。
「君は、知っているんだ。言葉で言えないだけなんだ。」
「そうですね。」勝治は、ほっとする。
「そうだろう? 定理ってのは皆そんなものなんだ。」
「そうでしょうか。」お追従《ついしょう》笑いなどをして、有原の美しい顔を、ほれぼれと見上げる。
勝治に圧倒的な命令を下して、仙之助氏の画を盗み出させたのも、こいつだ。本牧《ほんもく》に連れていって勝治に置いてきぼりを食らわせたのも、こいつだ。勝治がぐっすり眠っている間に、有原はさっさとひとりで帰ってしまったのである。勝治は翌る日、勘定《かんじょう》の支払いに非常な苦心をした。おまけにその一夜のために、始末のわるい病気にまでかかった。忘れようとしても、忘れる事が出来ない。けれども勝治は、有原から離れる事が出来ない。有原には、へんなプライドみたいなものがあって、決してよその家庭には遊びに行かない。たいてい電話で勝治を呼び出す。
「新宿駅で待ってるよ。」
「はい。すぐ行きます。」やっぱり出掛ける。
勝治の出費は、かさむばかりである。ついには、女中の松やの貯金まで強奪するようにさえなった。台所の隅で、松やはその事をお嬢さんの節子に訴えた。節子は自分の耳を疑った。
「何を言うのよ。」かえって松やを、ぶってやりたかった。「兄さんは、そんな人じゃないわ。」
「はい。」松やは奇妙な笑いを浮べた。はたちを過ぎている。
「お金はどうでも、よござんすけど、約束、――」
「約束?」なぜだか、からだが震えて来た。
「はい。」小声で言って眼を伏せた。
ぞっとした。
「松や、私は、こわい。」節子は立ったままで泣き出した。
松やは、気の毒そうに節子を見て、
「大丈夫でございます。松やは、旦那様にも奥様にも申し上げませぬ。お嬢様おひとり、胸に畳《たた》んで置いて下さいまし。」
松やも犠牲者のひとりであった。強奪せられたのは、貯金だけではなかったのだ。
勝治だって、苦しいに違いない。けれども、この小暴君は、詫びるという法を知らなかった。詫びるというのは、むしろ大いに卑怯な事だと思っていたようである。自分で失敗をやらかす度毎に、かえって、やたらに怒るのである。そうして、怒られる役は、いつでも節子だ。
或る日、勝治は、父のアトリエに呼ばれた。
「たのむ!」仙之助氏は荒い呼吸をしながら、「画を持ち出さないでくれ!」
アトリエの隅に、うず高く積まれてある書き損じの画の中から、割合い完成せられてある画を選び出して、二枚、三枚と勝治は持ち出していたのである。
「僕がどんな人だか、君は知っているのですか?」父はこのごろ、わが子の勝治に対して、へんに他人行儀のものの言いかたをするようになっていた。「僕は自分を、一流の芸術家のつもりでいるのだ。あんな書き損じの画が一枚でも市場に出たら、どんな結果になるか、君は知っていますか? 僕は芸術家です。名前が惜しいのです。たのむ。もう、いい加減にやめてくれ!」声をふるわせて言っている仙之助氏の顔は、冷い青い鬼のように見えた。さすがの勝治もからだが竦《すく》んだ。
「もう致しません。」うつむいて、涙を落した。
「言いたくない事も言わなければいけませんが、」父は静かな口調にかえって、そっと立ち上り、アトリエの大きい窓をあけた。すでに初夏である。「松やを、どうするのですか?」
勝治は仰天した。小さい眼をむき出して父を見つめるばかりで、言葉が出なかった。
「お金をかえして、」父は庭の新緑を眺めながら、「ひまを出します。結婚の約束をしたそうですが、」幽《かす》かに笑って、「まさか君も、本気で約束したわけじゃあないでしょう?」
「誰が言ったんです! 誰が!」矢庭《やにわ》に勝治は、われがねの如き大声を発した。「ちくしょう!」どんと床を蹴《け》って、「節子だな? 裏切りやがって、ちくしょうめ!」
恥ずかしさが極点に達すると勝治はいつも狂ったみたいに怒るのである。怒られる相手は、きまって節子だ。風の如くアトリエを飛び出し、ちくしょうめ! ちくしょうめ! を連発しながら節子を捜し廻り、茶の間で見つけて滅茶苦茶にぶん殴《なぐ》った。
「ごめんなさい、兄さん、ごめん。」節子が告げ口したのではない。父がひとりで、いつのまにやら調べあげていたのだ。
「馬鹿にしていやあがる。ちくしょうめ!」引きずり廻して蹴たおして、自分もめそめそ泣き出して、「馬鹿にするな! 馬鹿にするな! 兄さんは、な、こう見えたって、人から奢《おご》られた事なんかただの一度だってねえんだ。」意外な自慢を口走った。ひとに遊興費を支払わせたことが一度も無いというのが、この男の生涯に於ける唯一の必
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