どうなるものか、わからない。それは、神だけが知つてゐる。生きるものに権利あり。君の自由にするがいい。罪は、われらに無い。」
「ありがたう。」くすと笑つて、「あなたは、ずいぶん嘘つきね。それこそ、歴史的よ。ごめんなさい。ぢや、また、あとで、ね。」
 三木朝太郎は、くるしく笑つた。

        ☆

 東京では、昭和六年の元旦に、雪が降つた。未明より、ちらちら降りはじめ、昼ごろまでつづいた。ひる少しすぎ、戸山が原の雑木の林の陰に、外套の襟を立て、無帽で、煙草をふかしながら、いらいら歩きまはつてゐる男が在つた。これは、どうやら、善光寺助七である。
 ひよつくり木立のかげから、もうひとり、二重まはし着た小柄な男があらはれた。三木朝太郎である。
「ばかなやつだ。もう来てやがる。」三木は酔つてゐる様子である。「ほんたうに、やる気なのかね。」
 助七は、答へず、煙草を捨て、外套を脱いだ。
「待て。待て。」三木は顔をしかめた。「薄汚い野郎だ。君は一たい、さちよをどうしようといふのかね。ただ、腕づくでも取る、戸山が原へ来い、片輪《かたわ》にしてやる、では、僕は君の相手になつてあげることができない。」
 ものも言はず、助七うつてかかつた。
「よせ!」三木は、飛びのいた。「逆上してやがる。いいか。僕の話を、よく聞け。ゆうべは、僕も失礼した。要らないことを言つた。」
 ゆうべは、新宿のバアで一緒にのんだ。かねて、顔見知りの間柄である。ふと、三木が、東北の山宿のことに就いて、口を滑らせた。さちよの肉体を、ちらと語つた。それから、やい、さちよはどこにゐる。知らない。嘘つけ、貴様がかくした。よせやい、見つともねえぞ、意馬心猿。それから、よし、腕づくでも取る、戸山が原へ来い、片輪《かたわ》にしてやる、といふことになつたのである。三木も、蒼ざめて承知した。元旦、正午を約して、ゆうべはわかれた。
「さちよの居《ゐ》どころは、僕は、知つてゐる。」三木は、落ちつきを見せるためか、煙草をとりだし、マツチをすつた。雪の原を撫でて来るそよ風が、二度も三度もマツチの焔を吹き消し、やつと煙草に火をつけて、「だけど、僕とは、なんでも無い。あのひとは、いま、一生懸命、勉強してゐる。学問してゐる。僕は、それは、あのひとのために、いいことだと思つてゐる。あのひとに在るのは、氾濫してゐる感受性だけだ。そいつを整理し、統一して、行為に移すのには、僕は、やつぱり教養が、必要だと思ふ。叡智が必要だと思ふ。山中の湖水のやうに冷く曇りない一点の叡智が必要だと思ふ。あのひとには、それがないから、いつも行為がめちやめちやだ。たとへば、君のやうな男にみこまれて、それで身動きができずに、――」
「恥づかしくないかね。」助七は、せせら笑つた。「けさから考へに考へて暗記して来たやうな、せりふを言ふなよ。学問? 教養? 恥づかしくないかね。」
 三木は、どきつとした。われにもあらず、頬がほてつた。こいつ、なんでも知つてゐる。
「不愉快な野郎だ。よし、相手になつてやる。僕は、君みたいな奴は、感覚的に憎悪する。宿命的に反撥する。しかし、最後に聞くが、君は、さちよを、どうするつもりだ。」煙草の火は消えてゐた。消えてゐるその煙草を、すぱすぱ吸つて、指はぶるぶる震へてゐた。
「どうするも、かうするも無いよ。」こんどは、助七のはうが、かへつて落ちついた。「いまに居どころをつきとめて、おれは、おれの仕方《しかた》で大事にするんだ。いいかい。あの女は、おれでなければ、だめなんだ。おれひとりだけが知つてゐる。おめえは山の宿で、たつた一晩、それだけを手がら顔に、きやあきやあ言つてゐやがる。あとは、もう、おめえなんかに鼻もひつかけないだらう。あいつは、そんな女だ。」
 三木は思はず首肯《うなづ》いた。まさに、そのとほりだつたのである。
「だが、おい。」助七は、さらに勢よく一歩踏み出し、「その一晩だつて、おめえには、ゆるさぬ。がまんできない。よくも、よくも。」
「さうか、わかつた。相手になる。僕も君には、がまんできない。よくよく思ひあがつた野郎だ。」煙草をぽんとはふつて、二重まはしを脱ぎ、さらに羽織を脱ぎ、ちよつと思案してから兵古帯をぐるぐるほどき、着物まですつぽり脱いで、シヤツと猿又だけの姿になり、
「女を肉体でしか考へることができないとは、気の毒なものさ。こちらにまで、その薄汚さの臭ひが移ら。君なんかと取組んで着物をよごしたら、洗つても洗つてもしみがとれまい。やくかいなことだ。」言ひながら、足袋を脱ぎ、高足駄を脱ぎ捨て、さいごに眼鏡をはづし、「来い!」
 ぴしやあんと雪の原、木霊して、右の頬を殴られたのは、助七であつた。間髪を入れず、ぴしやあんと、ふたたび、こんどは左。助七は、よろめいた。意外の強襲であつた。うむ、とふんばつて、腰を落し、両腕をひろげて身構へた。取組めば、こつちのものだと、助七にはまだ、自信があつた。
「なんだい、それあ。田舎の草角力ぢやねえんだぞ。」三木は、さう言ひ、雪を蹴つてぱつと助七の左腹にまはり、ぐわんと一突き助七の顎に当てた。けれども、それは失敗であつた。助七は三木のそのこぶしを素早くつかまへ、とつさに背負投、あざやかにきまつた。三木の軽いからだは、雪空に一回転して、どさんと落下した。
「ちきしやう。味なことを。」三木は、尻餅つきながらも、力一ぱい助七の下腹部を蹴上げた。
「うつ。」助七は、下腹をおさへた。
 三木はよろよろ立ちあがつて、こんどは真正面から、助七の眉間をめがけ、ずどんと自分の頭をぶつつけてやつた。大勢は、決した。助七は雪の上に、ほとんど大の字なりにひつくりかへり、しばらく、うごかうともしなかつた。鼻孔からは、鼻血がどくどく流れ出し、両の眼縁がみるみる紫色に腫れあがる。
 はるか遠く、楢の幹の陰に身をかくし、真赤な、ひきずるやうに長いコオトを着て、蛇の目傘を一本胸にしつかり抱きしめながら、この光景をこはごは見てゐる女は、さちよである。
 さちよは、あの翌る日に出京して、さうして別段、勉強も、学問も、しなかつた。もと銀座の同じバアにつとめてゐて、いまは神田のダンスホオルで働いてゐる友人がひとり在つて、そのひとの四谷のアパアトに、さちよはころがりこみ、編物をしたり、洗濯をしたり、食事の手伝ひをしてやつたり、毎日そんなことで日を送つてゐた。べつに、あわてて仕事を見つけようともしなかつた。流石に、ふたたびバアの女給は、気がすすまない様子であつた。そのうちに、三木朝太郎は、山の宿から引きあげて来て、どこで聞きこんだものか、さちよの居所を捜し当て、にやにやしながら、どうだい、女優になつてみないか、などと言ふのだが、さちよは、おやおや、たいへんねえ、と笑つて相手にしなかつた。三木は、それでも断念せず、ときどきアパアトにふらと立ち寄つては、ストリンドベリイやチエホフの戯曲集を一冊二冊と置いていつた。けさ、はやく、三木から電話で、戸山が原のことを聞き、男は、いやだねえ、とその踊子の友だちと話合ひ、とにかく正午に、雪解けのぬかるみを難儀しながら戸山が原にたどりついて、見ると、いましも、シヤツ一枚の姿の三木朝太郎は、助七の怪力に遭つて、宙に一廻転してゐるところであつた。さちよは、ひとりで大笑ひした。見てゐると、まるで二匹の小さい犬ころが雪の原で上になり下になり遊びたはむれてゐるやうで、期待してゐた決闘の凛烈さは、少しもなかつた。二人の男も、なんだか笑ひながらしてゐるやうで、さちよは、へんに気抜けがした。間もなく、助七は、ひつくりかへり、のそのそ三木が、その上に馬乗りになつて、助七の顔を乱打した。たちまち助七の、杜鵑に似た悲鳴が聞えた。さちよは、ひらと樹陰から躍り出て、小走りに走つて三木の背後にせまり、傘を投げ捨て、ぴしやと三木の頬をぶつた。
 三木は、ふりかへつて、
「なんだ、君か。」やさしく微笑した。立ちあがつて、さつさと着物を着はじめ、「君は、この男を愛してゐるのか。」
 さちよは、烈しく首を振つた。
「それぢや、そんな、おセンチな正義感は、よしたまへ。いいかい。憐憫と愛情とは、ちがふものだ。理解と愛情とは、ちがふものだ。」言ひながら、身なりを調へ、いつもの、ちよつと気取つた歴史的さんにかへつて、「さあ、帰らう。君は、君の好ききらひに、もつとわがままであつて、いいんだぜ。きらひな奴は、これは、だめさ。どんなに、つき合つたつて、好きになれるものぢやない。」
 助七は、仰向に寝ころんだまま、両手で顔を覆ひ、異様に唸つて泣いてゐた。
 三木の二重まはしの中にかくれるやうにぴつたり寄り添ひ、半丁ほど歩いて、さちよは振り向いてみて、ぎよつとした。助七は、雪の上に大あぐらをかき、さちよの置き忘れた柳の絵模様の青い蛇の目傘を、焚火がはりに、ぼうぼう燃やしてあたつてゐた。ばりばりと傘の骨の焼ける音が、はつきり聞えて、さちよは、わが身がこのまま火葬されてゐるやうな思ひであつた。


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本編には、女優高野幸代の女優としての生涯を記す。
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 高野さちよを野薔薇としたら、八重田数枝は、あざみである。大阪の生れで、もともと貧しい育ちの娘であつた。お菓子屋をしてゐる老父母は健在である。多くの弟妹があつて数枝はその長女である。小学校を出たきりで、そのうちに十九歳、問屋からしばしばやつて来るお菓子職人と遊んで、ふたり一緒に東京へ出て来た。父母も、はんぶんは黙許のかたちであつた。お菓子職人、二十三歳。上京して、早速、銀座のベエカリイに雇はれた。薄給である。家を持つことは、できず、数枝も同じ銀座で働いた。あまり上品でないバアである。少しづつ離れて、たちまち加速度を以て、離れてしまつた。その職人には、いま、妻も子も在る。数枝は、平凡な女給である。人生は、こんなものだ。ひとは、たよりにならない。幼いころから、さう教へられ、さうして、そのとほりに思ひこんでゐた。二十四になつて銀座のバアをよして、踊子になつた。このはうが、いくらか余計お金がとれるからである。そのとしの十一月下旬、朝ふと眼を醒ますと、以前おなじ銀座のバアにつとめてゐた高野さちよが、しよんぼり枕もとに坐つてゐた。
「ほかに、ないもの。」さちよは、冷い両手で、寝てゐる数枝の顔をぴたとはさんだ。
 数枝には、何もかもわかつた。
「ばかなことばかりして。」さう言ひながら起きあがり、小さいさちよを、ひしと抱いた。何事もなかつたやうにすぐ離れて、
「おかずは? やはり納豆かね。」
 さちよも、いそいそ襟巻をはづして、
「あたし買つて来よう。数枝は、つくだ煮だつたね。海老のつくだ煮買つて来てあげる。」
 出て行くさちよを見送り、数枝は、ガスの栓をひねつて、ごはんの鍋をのせ、ふたたび蒲団の中にもぐり込んだ。
 さうして、その日から、さちよの寄棲生活がはじまつた。年の瀬、お正月、これといふいいこともなくするする過ぎた。みぞれの降る夜、ふたりは、電気を消して、まつくらい部屋で寝ながら話した。
「さちよの伯父さんは、でも、いいひとだと思ふよ。過去のことは忘れろ、忘れろ。誰だつて、みんな、深い傷を背負つて、そ知らぬふりして生きてゐるのだ。いいなあ。なかなかわかつた人ぢやないか。あたしは、惚れたね。」ねむさうな声でさう言つて、数枝は、しづかに寝返りを打つた。
「かへれつていふの?」さちよは蒲団の中で小さくちぢこまつて、心細げに反問した。
「まあね。」数枝は大人びた口調で言つて、「だいいち、あの、歴史的は、ばかだよ。まさしく変人だね。いや、もつとわるい。婦女誘拐罪。咎人《とがにん》だよ、あれは。ろくなことを、しやしない。要らないことを、そそのかして、さうしてまたのこのこ、平気でここへ押しかけて来て、まるで恩人か何かのやうに、あの、きざな口のきき様《やう》つたら。どこまで、しよつてるのか、判りやしない。阿呆や。あの眼つきを、ごらんよ。どうしたつて、ふつうぢやないからね。」
 さちよは、くすくす笑つた。
 数枝も、こらへ切れず笑つてしまつて、それ
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