女に勝ちたい。あの人の肉体を、完全に、欲しい。それだけなんだ。おれは、あの人に、ずいぶんひどく軽蔑されて来ました。憎悪されて来た。けれども、おれには、おれの、念願があるのだ。いまに、おれは、あの人に、おれの子供を生ませてやります。玉のやうな女の子を、生ませてやります。いかがです。復讐なんかぢや、ないんだぜ。そんなけちなことは、考へてゐない。そいつは、おれの愛情だ。それこそ愛の最高の表現です。ああ、そのことを思ふだけでも、胸が裂ける。狂ふやうになつてしまひます。わかるかね。われわれ賎民のいふことが。」ねちねち言つてゐるうちに、唇の色も変り、口角には白い泡がたまつて、兇悪な顔にさへ見えて来た。「こんどの須々木乙彦とのことは、ゆるす。いちどだけは、ゆるす。おれは、いま、ずいぶんばかにされた立場に在る。おれにだつて、それは、わかつてゐます。はらわたが煮えくりかへるやうだつてのは、これは、まさしく実感だね。けれどもおれは、おれを軽蔑する女を、そんな虚傲の女を、たまらなく好きなんだ。蝶々のやうに美しい。因果だね。うんと虚傲になるがいい。どうです、これからも、あの女と、遊んでやつて呉れませんか。それは、おれから、たのむのだ。卑屈からぢやない。おれは、もともと高尚な人間を、好きなんだ。讃美する。君は、とてもいい。素晴らしい。皮肉でも、いやみでも、なんでもない。君みたいないい人と、おとなしく遊んで居れば、だいぢやうぶ、あいつは、もつと、か弱く、美しくなる。そいつは、たしかだ。」たらとよだれが、テエブルのうへに落ちて、助七あわててそれを掌で拭き消し、「あいつを、美しくして下さい。おれの、とても手のとどかないやうな素晴らしい女にして下さい。ね、たのむ。あいつには、あなたが、絶対に必要なんだ。おれの直感にくるひはない。畜生め。おれにだつて、誇があらあ。おれは、地べたに落ちた柿なんか、食ひたくねえのだ。」
 青年は陰鬱に堪へかねた。

        ☆

 さちよは、ふたたび汽車に乗つた。須々木乙彦のことが新聞に出て、さちよもその情婦として写真まで掲載され、たうとう故郷の伯父が上京し、警察のものが中にはひり、さちよは伯父と一緒に帰郷しなければならなくなつた。謂はば、廃残の身である。三年ぶりに見る、ふるさとの山川が、骨身に徹する思ひであつた。
「ねえ、伯父さん、おねがひ。あたしは、これからおとなしくするんだから、おとなしくしなければならないのだから、あたしをあまり叱らないでね。まちのお友達とも、誰とも、顔を合せたくないの。あたしを、どこかへ、かくして、ね。あたし、なんぼでも、おとなしくしてゐるから。」
 十二、三歳のむすめのやうに、さちよは汽車の中で、繰りかへし繰りかへし懇願した。親戚の間で、この伯父だけは、さちよを何かと不憫《ふびん》がつてゐた。伯父は、承諾したのである。故郷のまちの二つ手前の駅で、伯父とさちよは、こつそり下車した。その山間の小駅から、くねくね曲つた山路を馬車にゆられて、約二十分、谷間の温泉場に到着した。
「いいか。当分は、ここにゐろ。おれは、もう何も言はぬ。うちの奴らには、おれから、いいやうに言つて置く。おまへも、もう、来年は、はたちだ。ここでゆつくり湯治しながら、よくよく将来のことを考へてみるがいい。おまへは、おまへの祖先のことを思つてみたことがあるか。おれの家とは、較べものにならぬほど立派な家柄である。おまへがもし軽はづみなことでもして呉れたなら、高野の家は、それつきり断絶だ。高野の血を受け継いで生きてゐるのは、いいか、おまへひとりだ。家系は、これは、大事にしなければいけないものだ。いまにおまへにも、いろいろあきらめが出て来て、もつと謙遜になつたとき、家系といふものが、どんなに生きることへの張りあひになるか、きつとわかる。高野の家を興さうぢやないか。自重しよう。これは、おれからのお願ひだ。また、おまへの貴い義務でもないのか。多くは無いが、おまへが一家を創生するだけの、それくらゐの財産は、おれのうちで、ちやんと保管してあります。東京での二年間のことは、これからのおまへの生涯に、かへつて薬になるかも知れぬ。過ぎ去つたことは、忘れろ。さういつても、無理かも知れぬが、しかし人間は、何か一つ触れてはならぬ深い傷を背負つて、それでも、堪へて、そ知らぬふりして生きてゐるのではないのか。おれは、さう思ふ。まあ、当分、静かにして居れ。苦痛を、何か刺戟で治さうとしてはならぬ。ながい日数が、かかるけれども、自然療法がいちばんいい。がまんして、しばらくは、ここに居れ。おれは、これから、うちへ帰つて、みなに報告しなければいけない。悪いやうには、せぬ。それは、心配ない。お金は、一銭も置いて行かぬ。買ひたいものが、あるなら、宿へさう言ふがいい。おれから、宿のひとに頼んで置く。」
 さちよは、ひとり残された。提燈をもつて、三百いくつの石の段々を、ひい、ふう、みい、と小声でかぞへながら降りていつて、谷間の底の野天風呂にたどりつき、提燈を下に置いたら、すぐ傍を滔々と流れてゐる谷川の白いうねりが見えて、古い水車がぼつと鼻のさきに浮んだ。疲れてゐた。ひつそり湯槽にひたつてゐると、苦痛も、屈辱も、焦躁も、すべて薄ぼんやり霞んでいつて、白痴のやうにぽかんとするのだ。なんだか恥づかしい身の上になつてゐながら、それでもばかみたいに、こんなにうつとりしてゐるといふことは、これは、あたしの敗北かも知れないけれど、人は、たまには、苦痛の底でも、うつとりしてゐたつて、いいではないか。水車は、その重さうなからだを少しづつ動かしてゐて、一むれの野菊の花は提燈のわきで震へてゐた。
 このまま溶けてしまひたいほど、くたくたに疲れ、また提燈持つて石の段々をひとつ、ひとつ、のぼつて部屋へかへるのだ。宿は、かなり大きかつた。まつ暗い長い廊下に十いくつもの部屋がならび、ところどころの部屋の障子が、ぼつと明るく、その部屋部屋にだけは、客のゐることが、わかるのだ。一ばんめの部屋は暗く、二ばんめの部屋も暗く、三ばんめの部屋は明るく、障子がすつとあいて、
「さつちやん。」
「どなた?」おどろく力も失つてゐた。
「ああ、やつぱりさうだ。僕だよ。三木、朝太郎。」
「歴史的。」
「さうさ。よく覚えてゐるね。ま、はひりたまへ。」三木朝太郎は三十一歳、髪の毛は薄くなつてゐるけれども、派手な仕事をしてゐた。劇作家である。多少、名前も知られてゐた。
「おどろきだね。」
「歴史的?」
 三木朝太郎は苦笑した。歴史的と言ふのがかれの酔つぱらつたときの口癖であつて、銀座のバアの女たちには、歴史的さんと呼ばれてゐた。
「まさに、歴史的だ。まあ、坐りたまへ。ビイルでも呑むか。ちよつと寒いが、君、湯あがりに一杯、ま、いいだらう。」
 歴史的さんの部屋には、原稿用紙が一ぱい散らばつて、ビイル瓶が五、六本、テエブルのわきに並んでゐた。
「かうして、ひとりで呑んでは、少しづつ仕事をしてゐるのだが、どうもいけない。どんな奴でも、僕より上手なやうな気がして、もう、だめだね、僕は。没落だよ。この仕事が、できあがらないことには、東京にも帰れないし、もう十日以上も、こんな山宿に立てこもつて七転八苦、めもあてられぬ仕末さ。さつきね、女中からあなたの来てゐることを聞いたんだ。呆然としたね。心臓が、ぴたと止つたね。夢では、ないか。」
 テエブルのむかふにひつそり坐つた小さいさちよの姿を、やさしく眺めて、
「僕は、ばかなことばかり言つてるね。それこそ歴史的だ。てれくさいんだよ。からだばかりわくわくして、どうにもならない。」ふと眼を落して、ビイルを、ひとりで注いで、ひとりで呑んだ。
「自信を、お持ちになつていいのよ。あたし、うれしいの。泣きたいくらゐ。」嘘は、なかつた。
「わかる。わかる。」歴史的は、あわてて、「でも、よかつた。くるしかつたらうね。いいんだ、いいんだ。僕は、なんでも、ちやんと知つてゐる。みんな知つてゐる。こんどの、あのことだつて、僕は、ちつとも驚かなかつた。いちどは、そこまで行くひとだ。そこをくぐり抜けなければ、いけないひとだ。あなたの愛情には、底がないからな。いや、感受性だ。それは、ちよつと驚異だ。僕は、ほとんど、どんな女にでも、いい加減な挨拶で応対して、また、それでちやうどいいのだが、あなたにだけは、それができない。あなたは、わかるからだ。油断ならない。なぜだらう。そんな例外は、ない筈なんだ。」
「いいえ。女は、」すすめられて茶呑茶碗のビイルをのんだ。「みんな利巧よ。それこそなんでも知つてゐる。ちやんと知つてゐる。いい加減にあしらはれてゐることだつて、なんだつて、みんな知つてゐる。知つてゐて、知らないふりして、子供みたいに、雌のけものみたいに、よそつてゐるのよ。だつて、そのはうが、とくだもの。男つて、正直ね。何もかも、まる見えなのに、それでも、何かと女をだました気で居るらしいのね。犬は、爪を隠せないのね。いつだつたかしら、あたしが新橋駅のプラツトフオームで、秋の夜ふけだつたわ、電車を待つてゐたら、とてもスマートな犬が、フオツクステリヤといふのかしら、一匹あたしの前を走つていつて、あたしはそれを見送つて、泣いたことがあるわ。かちかちかちかち、歩くたんびに爪の足音が聞えて、ああ犬は爪を隠せないのだ、と思つたら、犬の正直が、いぢらしくて、男つて、あんなものだ、と思つたら、なほのこと悲しくて、泣いちやつた。酔つたわよ。あたし、ばかね。どうして、こんなに、男を贔負《ひいき》するんだろ。男を、弱いと思ふの。あたし、できることなら、からだを百にして千にしてたくさんの男のひとを、かばつてやりたいとさへ思ふわ。男は、だつて、気取つてばかりゐて可哀さうだもの。ほんたうの女らしさといふものは、あたし、かへつて、男をかばふ強さに在ると思ふの。あたしの父は、女はやさしくあれ、とあたしに教へてゐなくなつちやつたけれど、女のやさしさといふものは、――」言ひかけて、ものに驚いた鹿のやうに、ふつと首をもたげて耳をすまし、
「誰か来るわ。あたしを隠して。ちよつとでいいの。」につと笑つて、背後の押入れの襖をあけ、坐りながらするするからだを滑り込ませ、
「さあさ、あなたは、お仕事。」
「よし給へ。それも女の擬態かね?」歴史的は、流石に聡明な笑顔であつた。「この部屋へ来る足音ぢやないよ。まあ、いいからそんな見つともない真似はよしなさい。ゆつくり話さうぢやないか。」自分でも、きちんと坐り直してさう言つた。痩せて小柄な男であつたが、鉄縁の眼鏡の底の大きい眼や、高い鼻は、典雅な陰影を顔に与へて、教養人らしい気品は、在つた。
「あなた、お金ある?」押入れのまへに、ぼんやり立つたままで、さちよは、そんなことを呟いた。「あたし、もう、いやになつた。あなたを相手に、こんなところで話をしてゐると、死ぬるくらゐに東京が恋しい。あなたが悪いのよ。あたしの愛情が、どうのかうのと、きざに、あたしをいぢくり廻すものだから、あたし、いいあんばいに忘れてゐた、あたしの不幸、あたしの汚なさ、あたしの無力、みんな一時に思ひ出しちやつた。東京は、いいわね。あたしより、もつと不幸な人が、もつと恥づかしい人が、お互ひ説教しないで、笑ひながら生きてゐるのだもの。あたし、まだ、十九よ。あきらめ切つたエゴの中で、とても、冷く生きて居れない。」
「脱走する気だね。」
「でも、あたし、お金がないの。」
 三木は、ちらと卑しく笑ひ、そのまま頭をたれて考へた。ずいぶん大袈裟な永い思案の素振りであつた。ふと顔をあげて、
「十円あげよう。」ほとんど怒つてゐるやうな口調で、「君は、ばかだ。僕は、ずいぶん、あなたを高く愛して来た。あなたは、それを知らない。僕には、あなたの、ちよつとした足音にもびくついて、こそこそ押入れに隠れるやうな、そんなあさましい恰好を、とても、だまつて見て居れない。いまのあなたにお金をあげたら、僕は、ものの見事に背徳漢かも知れない。けれども、これは僕の純粋衝動だ。僕は、それに従ふ。僕には、この結果が、
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