い。まさか、父ではなからう。浅草でわかれた、あの青年ではなかつたかしら。とにかく、霧中の記憶にすぎない。はつきり覚醒して、みると、病院の中である。「あなただけでも、強く生きるのだぞ。」その声が、ふと耳によみがへつて来て、ああ、あの人は死んだのだ、と冷くひとり首肯した。おのれの生涯の不幸が、相かはらず鉄のやうにぶあいそに膠着してゐる状態を目撃して、あたしは、いつも、かうなんだ、と自分ながら気味悪いほどに落ちついた。
 ドアの外で正服の警官がふたり見張りしてゐることをやがて知つた。どうするつもりだらう。忌《いま》はしい予感を、ひやと覚えたとき、どやどやと背広服着た紳士が六人、さちよの病室へはひつて来た。
「須々木が、ホテルで電話をかけたさうだね。」
「ええ。」あはれに微笑んで答へた。 
「誰にかけたか知つてるね?」
 うなづいた。
「そいつは?」
「わかい人でした。」
「名前さ。」
「存じません。」
 紳士たちの私語が、ひそひそ室内に充満した。
「まあ、いい。これからすぐ警視庁へ来てもらふ。歩けないことは、あるまい。」
 自動車に乗せられ、窓からちまたを眺めると、人は、寒さうに肩をすくめて、いそがしさうに歩いてゐた。ああ、生きてゐる人が、たくさん在るのだ、と思つた。
 留置場に入れられて、三日、そのまま、ほつて置かれた。四日目の朝、調室に呼ばれて、
「やあ、君は、なんにも知らんのだねえ。ばかばかしい。かへつてもよろしい。」
「はあ。」
「帰つて、よろしい。これからは、気をつけろ。まともに暮すのだぞ。」
 ふらふら調室から出ると、暗い廊下に、あの青年が立つてゐた。
 さちよは少し笑ひかけて、そのまま泣き出し、青年の胸に身を投げた。
「かへりませう。僕には、なんのことやら、わけがわかりません。」
 この人だ。あの昏睡のときの、おぼろげな記憶がよみがへつて来た。あのとき私は、この人に、しつかり抱かれてゐた。うなづいて、つと青年の胸から離れた。
 外へ出て、日のひかりが、まばゆかつた。二人だまつて、お濠に沿つて歩いた。
「どう話していいのか、」青年は煙草に火を点じた。ひよいと首を振つて、「とにかく、おどろいたなあ。」あきらかに興奮してゐた。
「すみません。」
「いや、そのことぢやないんだ。いや、そのことも、たいへんだつたが、それよりも、乙やんが、いや、須々木さんのこと、あなただつて何も知らんのでせう?」
「知つてゐます。」
「おや?」
「おなくなりに、」言ひかけて涙が頬を走つた。
「そのことぢやないんです。」青年は厳粛に口をひきしめ、まつすぐを見つめた。「それも僕には、いや、あなたにだつて、おそろしい打撃なんだが、」煙草を捨てた。「そのことよりも、ほかに、――須々木さんは、ね、たいへんなことをやつたらしいんだ。あなたとのことも、まだ、新聞には、出てゐませんよ。記事差止といふやつらしいのです。あなたのことも、僕のことも、警察ぢや、ずいぶんくはしく調べてゐました。僕は、ひどいめにあつちやつた。それは、きびしく調べられました。あなただつて、あの二日まへにはじめて逢つただけなんださうだし、僕だつて、須々木さんとは親戚で、小さい時から一緒に遊んで、僕は、乙やんを好きだつたし、」ちよつと、とぎれた。突風のやうに嗚咽がこみあげて来たのを、あやふくこらへた。「やつと、僕たち、なんにも知らなかつたのだといふことが判つて、ひとまづ釈放といふところなのです。ひとまづ、ですよ。これから、何か事あるごとに呼び出されるらしいのだから、あなたも、その覚悟をしてゐて下さいね。あなたは、からだも、まだ全快ぢやないのだし、僕が、責任を以て、あなたの身柄を引き受けました。」
「すみません。」ふたたび、消え入るやうにわびを言つた。
「いいえ。僕のことは、どうでもいいんだけど、」青年は、あれこれ言つてゐるうちに、この一週間、自分の嘗《な》めて来た苦悩をまざまざと思ひ起し、流石に少し不気嫌になつて、「あなたは、これからどうします? 僕の下宿に行きますか? それとも、――」
 ふたりは、もう帝劇のまへまで来てゐた。
「入舟町へかへります。」入舟町の露路、髪結さんの二階の一室を、さちよは借りてゐた。
「は、さうですか。」青年は、事務的な口調で言つた。いよいよ不気嫌になつてゐた。「お送りしませう。」
 自動車を呼びとめ、ふたり乗つた。
「おひとりで居られるのですか。」
 さちよは答へなかつた。
 青年の、のんきな質問に、異様な屈辱を感じて、ぐつと別な涙が、くやし涙が、沸いて出て、それでも思ひ直して、かなしく微笑んだ。このひとは、なんにも知らないのだ。私たちが、どんなにみじめな、くるしい生活をしてゐるのか、このお坊ちやんには、なんにもわかつてゐないのだ。さう思つたら、微笑が、そのまま凍りついて、みるみる悪鬼の笑ひに変つていつた。

        ☆

 男は、何人でも、ゐます。さう答へてやりたかつた。おのれは醜いと恥ぢてゐるのに、人から美しいと言はれる女は、そいつは悲惨だ。風の音に、鶴唳に、おどかされおびやかされ、一生涯、滑稽な罪悪感と闘ひつづけて行かなければなるまい。高野さちよは、美貌でなかつた。けれども、男は、熱狂した。精神の女人を、宗教でさへある女人をも、肉体から制御し得る、といふ悪魔の囁きは、しばしば男を白痴にする。そのころの東京には、モナ・リザをはだかにしてみたり、政岡の亭主について考へてみたり、ジヤンヌ・ダアクや一葉など、すべてを女体として扱ふ疲れ果てた好色が、一群の男たちの間に流行してゐた。そのやうな極北の情慾は、謂はばあの虚無ではないのか。しかもニヒルには、浅いも深いも無い。それは、きまつてゐる。浅いものである。さちよの周囲には、ずいぶんたくさんの男が蝟集した。その青白い油虫の円陣のまんなかにゐて、女ひとりが、何か一つの真昼の焔の実現を、愚直に夢見て生きてゐるといふことは、こいつは悲惨だ。
「あなたは、どうお思ひなの? 人間は、みんな、同じものかしらん。」考へた末、そんなことを言つてみた。「あたしは、ひとり、ひとり、みんな違ふと思ふのだけれど。」
「心理ですか? 体質ですか?」わかい医学研究生は、学校の試験に応ずるやうな、あらたまつた顔つきで、さう反問した。
「いいえ。あたし、きざねえ。ちよつと、気取つてみたのよ。」すこしまへに泣いてゐたひととも思はれぬほど、かん高く笑つた。歯が氷のやうにかがやいて、美しかつた。
 その橋を越せば、入舟町である。
「寄つて行かない?」あたしは、バアの女給だ。
 部屋へはひると、善光寺助七が、部屋のまんなかに、あぐらをかいて坐つてゐた。青年と顔を見合せ、善光寺は、たちまち卑屈に、ひひと笑つて、
「あなたも、おどろいたでせう? おれだつて、まさに、腰を抜かしちやつた。さちよ君《くん》はね、いつでも、こんなこと、平気でやらかすものだから、弱るです。社へ情報がはひつて、すぐ病院へ飛んでいつたら、この先生、ただ、わあわあ泣いてゐるんでせう? わけがわからない。そのうちに警視庁から、記事の差止だ。ご存じですか? 須々木乙彦つて、あれは、ただの鼠ぢやないんですね。黒色テロ。銀行を襲撃しちやつた。」
 憮然と部屋の隅につつ立つてゐた青年は、
「たしかですか?」蒼ざめてゐた。
「もう、五六日したら、記事も解禁になるだらうと思ひますが。」善光寺は、新聞社につとめてゐた。
 さちよは、静かに窓のカーテンをあけた。あたしは、病院でこの善光寺助七の腕に抱かれて泣いたのだ。
「あなたは、いつから来てゐたの?」冷い語調であつた。
「おれかい?」死んだ大倉喜八郎翁にそつくりの丸い顔を、ぱつとあからめ、子供のやうにはにかんだ。
「ほんの、少しまへです。けさ早く警視庁へ電話したら、あなたたちの出ることを知らせて呉れたので、とにかく、ここへ来てみたわけです。したのをばさん心配してゐたぜ。留守に何度も何度も刑事が来て、この部屋を掻きまはしていつたさうだ。をばさんには、おれから、うまく言つて置きました。まあ、お坐りなさい。」さちよの顔を笑つてそつと見上げ、「よかつたね。よく、君は、無事で、――」涙ぐんでゐた。
 さちよは、机の上に片手をつき、崩れるやうに坐つて、
「よくもないわ。煙草ないの? おやおや、あたし、あなたの顔を見ると、急に、煙草ほしくなるのね。」
「これは、ごあいさつだな。」助七は、それでも、恐悦であつた。
「僕は、しつれいしませう。」青年は、先刻から襖にかるく寄りかかり、つつ立つたままでゐた。
「さう?」さちよは、きよとんとした顔つきで青年を見上げ、煙草のけむりをふつと吐いた。
「御自重なさいね。僕は、責任をもつて、あなたを引き受けたのです。須々木さんのためにも、しつかりしてゐて下さい。僕は、乙やんを信じてゐるのだ。どんなことがあつたつて、僕は乙やんを支持する。ぢやあまた、そのうち、来ます。」
「どうも、けふは、ありがたう。」蓮葉な口調で言つて、顔を伏せ、そつと下唇を噛んだ。
 青年を見送りに立たうともせず、顔を伏せたままで、じつとしてゐた。階段を降りて行く青年の足音が聞えなくなつてから、ふつと顔をあげて、
「助七。あたしは、おまへと一緒にゐる。どんなことがあつても離れない。」
「よせやい。」助七は、めづらしくきびしい顔つきで、さう言つた。「おれは、それはどばかぢやない。」つと立つて、青年のあとを追つた。
「君《きみ》、君。」新富座のまへで、やつと追ひついた。「話したいことがあるのだがねえ。」
 青年は、振りかへつて、
「僕は、あなたを憎んでゐません。好きです。」
「まあ、さう言ふな。」にやにやして言つたのであるが、青年の、街路樹の下にすらと立つてゐる絵のやうに美しい姿を見て、流石にぐつと真面目になつた。いい男《をとこ》だなあ、と思つた。「すこし、君に、話したいことがあるのだけれど、なに、ちよつとでいいのです。つき合つて呉れませんか。おれだつて、――」言ひ澱んで、「君を好きです。」
 三好野《みよしの》へはひつた。
「須々木乙彦、といふのは、あなたの親戚なんですつてね?」あなた、といつたり、君といつたり、助七は、秩序がなかつた。
「いとこですが。」青年は、熱い牛乳を啜つてゐた。朝から、何もたべてゐなかつた。
「どんな男です。」真剣だつた。
「僕の、僕たちの、――」青年は、どもつた。
「英雄ですか?」助七は、苦笑した。
「いいえ。愛人です。いのちの糧《かて》です。」
 その言葉が、助七を撃つた。
「ああ、それはいい。」貧苦より身を起し、いままで十年間、こんな純粋の響の言棄を、聞いたことがなかつた。「おれは、ことし二十八だよ。十七のとしから給仕をして、人を疑ふことばかり覚えて来た。君たちは、いいなあ。」絶句した。
「ポオズですよ、僕たちは。」青年の左の眼は、不眠のために充血してゐた。「でも、ポオズの奥にも、いのちは在る。冷い気取りは、最高の愛情だ。僕は、須々木さんを見て、いつも、それを感じてゐました。」
「おれだつて、いのちの糧《かて》を持つてゐる。」
 低くさう言つて、へんに親しげに青年の顔をしげしげ眺めた。
「存じて居ります。」
「一言もない。おれは、もともと賎民さ。たかだか一個の肉体を、肉体だけを、」言ひかけてふつと口を噤み、それからぐつと上半身を乗り出させて、「あなたは、あの女を、どう思ひますか?」
「気の毒な人だと思つてゐます。」用意してゐたのではないかと思はれるほど、涼しく答へた。
「それだけですか? いや、ここだけの話ですけれども、ね。奇妙な、何か、感じませんか?」
 青年は、顔をあからめた。
「それごらん。」助七は、下唇を突き出し、にやと笑つた。「やつぱりさうだ。だけど、あなたは、まだいい。たつた一日だ。おれは、かれこれ、一年になります。三百六十五日。さうだ、あなたの三百六十五倍も、おれはあの女に苦しめられて来たのです。いや、あの女には、罪はない。それは、あのひとの知らないことだ。罪は、おれの下劣な血の中に在る。笑つて呉れ。おれは、あの
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