でも、
「いやな奴さ。笑ひごとぢやないよ。謂はば、女性の敵だね。」
「でも、あたし、知つてるよ。数枝は、はじめから歴史的を好きだつた。」
「こいつ。」
女ふたり、腹をおさへて、笑ひころげた。
「かへらぬ昔さ。」てれ隠しに数枝は、わざと下手《へた》な言葉を言つて、「どうも、なんだね、あたしたち、男運がわるいやうだね。」
「いいえ、」ときどきさちよは、ふつと水のやうに冷い語調に澄まし帰ることがある。大笑ひのあとにでも、あたりの雰囲気におかまひなしに、一瞬、もう静かな口調で、ものを言ひ出す。へんな癖である。「あたしは、さうは思はない。あたしは、どんな男の人でも、尊敬してゐる。」
数枝は、流石に気まづくなつた。われにも無く、むりにしんみりした口調で、
「わかいからねえ。」言つてしまつて、いよいよいけないと思つた。どうにも、自分が、ぶざまである。閉口して、たうとうやけに、屹《き》つとなつてしまつて、「ばかなこと、お言ひでないよ。ギヤングだの、低脳記者だの、ろくなものありやしない。さちよを、ちつとでも仕合せにして呉れた男が、ひとりだつて、無いやないか。それを、尊敬してゐます、なんて、きざなこと。」
「それは、少しちがふね。」こんどは、さちよは、おどけた口調にかへつて、「男にしなだれかかつて仕合せにしてもらはうと思つてゐるのが、そもそも間違ひなんです。虫が、よすぎるわよ。男には、別に、男の仕事といふものがあるのでございますから、その一生の事業を尊敬しなければいけません。わかりまして?」
数枝は、不愉快で、だまつてゐた。
さちよは調子に乗つて、
「女ひとりの仕合せのために、男の人を利用するなんて、もつたいないわ。女だつて、弱いけれど、男は、もつと弱いのよ。やつとのところで踏みとどまつて、どうにか努力をつづけてゐるのよ。あたしには、さう思はれて仕方がない。そんなところに、女のひとが、どさんと重いからだを寄りかからせたら、どんな男の人だつて、当惑するわ。気の毒よ。」
数枝は、呆れて、蛮声を発した。
「白虎隊は、ちがふね。」さちよの祖父が白虎隊のひとりだつたことを数枝は、さちよから聞かされて知つてゐた。
「そんなんぢやないのよ。」さちよは、暗闇の中で、とてもやさしく微笑んだ。「あたし、巴御前ぢやない。薙刀もつて奮戦するなんて、いやなこつた。」
「似合ふよ。」
「だめ。あたし、ちびだから、薙刀に負けちやふ。」
ふふ、と数枝は笑つた。数枝の気嫌が直つたらしいので、さちよは嬉しく、
「ねえ。あたしの言ふこと、もすこしだまつて聞いてゐて呉れない? ご参考までに。」
「いふことが、いちいち、きざだな。歴史的氏の悪影響です。」数枝は、気をよくしてゐた。
「あたしは、ね、歴史的さんでも、助七でも、それから、ほかのひとでも、みんな好きよ。わるい人なんて、あたしは、見たことがない。お母さんでも、お父さんでも、みんな、やさしくいいひとだつた。伯父さんでも、伯母さんでも、ずいぶん偉いわ。とても、頭があがらない。はじめから、さうなのよ。あたし、ひとりが、劣つてゐるの。そんなに生れつき劣つてゐる子が、みんなに温く愛されて、ひとり、幸福にふとつてゐるなんて、あたし、もうそんなだつたら、死んだはうがいい。あたし、お役に立ちたいの。なんでもいい、人の役に立つて、死にたい。男のひとに、立派なよそほひをさせて、行く路々に薔薇の花を、いいえ、すみれくらゐの小さい貧しい花でもがまんするわ、一ぱいに敷いてやつて、その上を堂々と歩かせてみたい。さうして、その男のひとは、それをちつとも恩に着ない。これは、はじめからかうなんだと、のんきに平気で、行き逢ふ人、行き逢ふ人にのんびり挨拶をかへしながら澄まして歩いてゐると、まあ、男は、どんなに立派だらう。どんなに、きれいだらう。それを、あたしは、ものかげにかくれて、誰にも知られずに、そつとをがんで、うれしいだらうなあ。女の、一ばん深いよろこびといふものは、そんなところにあるのではないのかしら。さう思はれて仕方がない。」
「わるくないね。」数枝も、耳を傾けた。「参考になる。」
さちよは、一息《ひといき》ついて、
「それを、男つたら、ひとがいいのねえ。だれもかれも、みんな、お坊ちやんよ。お金と、肉体だけが、女のよろこびだと、どこから聞いて来たのか、ひとりできめてしまつて、おかげで自分が、ずいぶんあくせく無理をして、女のはうでは、男のそんなひとりぎめを、ぶちこはすのが気の毒で、いぢらしさに負けてしまふのね。だまつて虚栄と、肉体の本能と二つだけのやうな顔をしてあげてやつてゐるのに、さうすると、いよいよ男は悟り顔してそれにきめてしまふもんだから、すこし、をかしいわ。女のひとは、誰でも、男のひとを尊敬してゐるし、なにかしてあげたいと一心に思ひつめてゐるのに、ちつともそんなことに気がつかないで、ただ、あなたを幸福にできるとか、できないとか言つては、お金持ちのふりをしたり、それから、――をかしいわ、自信たつぷりで、へんなことするんだもの。女が肉体だけのものだなんて、だれが一体、そんなばかなことを男に教へたのかしら。自然に愛情が、それを求めたら、それに従へばいいのだし、それを急に、顔いろを変へたり、色んなどぎつい芝居をして、ばかばかしい。女は肉体のことなんか、そんなに重要に思つてゐないわ。ねえ、数枝なんかだつて、さうなんだらう? いくらひとりでお金をためたつて、男と遊んだつて、いつでも淋しさうぢやないか。あたし、男のひと皆に教へてやりたい。女にほんたうに好かれたいなら、ほんたうに女を愛してゐるなら、ほんの身のまはりのことでもいいから、何か用事を言ひつけて下さい。権威を以て、お言ひつけ下さい、つて。地位や名聞を得なくたつて、お金持ちにならなくたつて、男そのものが、立派に尊いのだから、ありのままの御身に、その身ひとつに、ちやんと自信を持つてゐてくれれば、女は、どんなにうれしいか。お互ひ、ちよつとの思ひちがひで、男も女も、ずいぶん狂つてしまつたのね。歯がゆくつて、仕方がない。お互ひ、それに気がついて、笑ひ合つてやり直せば、――幸福なんだがなあ。世の中は、きつと住みよくなるだらうに。」
「ああ、学問をした。」数枝は、ことさらに大げさなあくびをした。「それで、須々木乙彦は、よかつたのかね。」
数枝の無礼を、気にもかけず、
「あのひと、ね、をかしいのよ。とても、子供みたいな、へんな顔をして、僕は、乳房つて、おふくろにだけあるものだと思つてゐた、といふのよ。それが、ちつとも、気取りでも、なんでもないの。恥づかしさうにしてゐたわ。ああ、この人、ずいぶん不幸な生活して来た人なんだな、と思つたら、あたし、うれしいやら、有難いやら、可愛いやら、胸が一ぱいになつて、泣いちやつた。一生、この人のお傍にゐよう、と思つた。永遠の母親、つていふのかしら。私まで、そんな尊いきれいな気持になつてしまつて、あのひと、いい人だつたな。あたしは、あの人の思想や何かは、ちつとも知らない。知らなくても、いいんだ。あの人は、あたしに自信をつけてくれたんだ。あたしだつて、もののお役に立つことができる。人の心の奥底を、ほんたうに深く温めてあげることができると、さう思つたら、もう、そのよろこびのままで、死にたかつた。でも、こんなに、まるまるとふとつて生きかへつて来て、醜態ね。生きかへつて、こんなに一日一日おなじ暮しをして、それでいいのかしらと、たまらなく心細いことがあるわ。大声で叫び出したく思ふことがあるの。どうせいちど死んだ身なんだし、何でもいい、人のお役に立てるものなら立つてあげたい。どんな、つらいことでも、どんな、くるしいことでも、こらへる。」そつと頭をもたげて、「ねえ、数枝。聞いてゐるの? 歴史的さんね、あのひと、あたし、そんなに悪いひとぢやないと思ふわ。あのひと、あたしを女優にするんだと、ずいぶん意気込んでゐるんだけれど、どんなものだらうねえ、数枝だつて、あたしがいつまでも、ここで何もせずに居候してゐたら、やつぱり、気持が重いでせう? また、あたしが女優になつて、歴史的さんがそれで張り合ひのあるお仕事できるやうなら、あたし、女優になつても、いいと思ふの。あたしがその気になりさへすれば、あとは、手筈が、ちやんときまつてゐるんだつて、さう言つてゐたわ。」
「おまへの好きなやうにするさ。名女優になれるだらうよ。」数枝は、ふたたび不気嫌である。「それは、ね、あたしだつて、くさくさすることは、あるさ。この子は、いつまでもここにゐて、いつたいどうするつもりだらうと、さちよの図々しさが憎くなることもあるよ。でも、あたしは、ひとつことを三分《さんぷん》以上かんがへないことに、昔からきめてゐるの。めんだうくさい。どんなに永く考へたつて、結局は、なんのこともない。あたつてみなければ判らないことばかりなんだからね。あほらしい。あたしにだつて、心配なことが、それは、たくさんあるのよ。だから、一つのことは、三分だけ考へて、解決も何もおかまひなしに、すぐつぎに移つて、そいつを三分間だけ考へて、また、つぎのことを三分、そのへんは、なかなか慣れたものよ。心配のたねの引き出しを順々にあけて、ちらと一目《ひとめ》調べてみて、すぐにぴたつとしめて、さうして、眠るの。これ、なかなか健康にいいのよ。どうだい、あたしにだつて、相当の哲学があるだらう。」
「ありがたう。数枝、あなたは、いいひとね。」
数枝は、てれて、わざと他のことを言つた。
「やんだね、みぞれが。」
「ええ。」さちよは、言ひたいだけ言つて、あとは無心であつた。「あした、お天気だといいわね。」
「うん。眼がさめてみると、からつと晴れてゐるのは、うれしいからな。」数枝も、なんの気なしに、さう合槌うつて、朝の青空を思へば、やはり浮き浮きするのだが、それだけのことでも、ずいぶん楽しみにして寝る身がいとしく、さて、晴れたからとて、自分には、なんといふこともないのに、とひとりで笑ひたくなつて、蒲団を引きかぶり、眼尻から涙が、つとあふれて落ちて、おや、あくびの涙かしら、泣いてゐるのかしら、と流石にあわて、とにかく、この子が女優になるといふし、これは、ひとつ、後援会でも組織せずばなるまい。
☆
成功であつた。劇団は、「鴎座。」劇場は、築地小劇場。狂言は、チエホフの三人姉妹。女優、高野幸代は、長女オリガを、見事に演じた。昭和六年三月下旬、七日間の公演であつた。青年、高須隆哉は、三日目に見に行つた。幕があく。オリガ、マーシヤ、イリーナの三人の姉妹が、舞台にゐる。やがて、オリガの独白がはじまる。はじめ低くて、聞えなかつた。青年は、暗い観客席の一隅で、耳をすました。とぎれ、とぎれに聞えて来る。
――あの日、寒かつたわね。雪が降つてゐたんだもの。――あたし、とても生きてゐられないやうな、――でも、もうあれから一年たつて、あたしたちもその時のことを、楽な気持で思ひ出せるやうになつたし、――(時計が十二時を打つ。)
ゆつくり打つ舞台の時計の音を、聞いてゐるうちに青年は、急にきよろきよろしはじめて、ちえつ、ちえつと、二度もはげしく舌打して、それから、つと立つて廊下に出た。
僕は、あんな女は好まない。僕は、あんな女を好かない。あいつは、所詮ナルシツサスだ。あの女は、謙虚を知らない。自分さへその気になつたら、なんでもできると思つてゐる。なぜ、あいつは、くにを飛び出し、女優なんかになつたのだらう。もう、あの様子では、須々木乙彦のことなんか、ちつとも、なんとも、思つてゐない。悪魔、でなければ、白痴だ。いやいや、女は、みんなあんなものなのかも知れない。よろこびも、信仰も、感謝も、苦悩も、狂乱も、憎悪も、愛撫も、みんな刹那だ。その場限りだ。一時期すぎると、けろりとしてゐる。恥ぢるがいい。それが純粋な人間性だ、と僕も、かつては思つてゐた。僕は科学者だ。人間の官能を悉知してゐる。けれども僕は、断じて肉体万能論者ではない。バザロフなんて、甘いものさ。精神が、信仰が、人間の万事を
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