のぢやないのか。まづ自分を、自分の周囲を、不安ないやうに育成して、自分の小さいふるさとの、自分のまづしい身内《みうち》の、堅実な一兵卒になつて、努めて、それからでなければ、どんな、ささやかな野望でも、現実は、絶対に、ゆるさない。賭けてもいい。高野幸代は、失敗する。いまのままですすめば、どん底に蹴落される。火を見るよりも、明らかだ。世の中は、つらいのだ。きびしいのだ。一日、一日、僕には、いまのこの世の中の苛烈が、身にしみる。みぢんも、でたらめを許さない。お互ひ、鵜《う》の目、鷹《たか》の目だ。いやなことだ。いやなことだが、仕方がない。」
「負けたのよ。あなたは、負けたのよ。」かん高く叫んで、多少、呂律《ろれつ》がまはらなかつた。よろめいて、耳をふさぎ、「ああ、聞きたくない、聞きたくない。あなたまで、そんな、情ないことおつしやる。ずるい、ずるい。意気地がない。臆病だ。負け惜しみだ。ああ、もう、理屈は、いやいや。世の中の人たちは、みんな優しい。みんな手助けして呉れる。冷く、むごいのは、あなたたちだけだ。どん底に蹴落すのは、あなたたちだ。負けても、嘘ついて気取つてゐる男だけが、ひとのせつかくの
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