いやうな、――でも、もうあれから一年たつて、あたしたちもその時のことを、楽な気持で思ひ出せるやうになつたし、――(時計が十二時を打つ。)
 ゆつくり打つ舞台の時計の音を、聞いてゐるうちに青年は、急にきよろきよろしはじめて、ちえつ、ちえつと、二度もはげしく舌打して、それから、つと立つて廊下に出た。
 僕は、あんな女は好まない。僕は、あんな女を好かない。あいつは、所詮ナルシツサスだ。あの女は、謙虚を知らない。自分さへその気になつたら、なんでもできると思つてゐる。なぜ、あいつは、くにを飛び出し、女優なんかになつたのだらう。もう、あの様子では、須々木乙彦のことなんか、ちつとも、なんとも、思つてゐない。悪魔、でなければ、白痴だ。いやいや、女は、みんなあんなものなのかも知れない。よろこびも、信仰も、感謝も、苦悩も、狂乱も、憎悪も、愛撫も、みんな刹那だ。その場限りだ。一時期すぎると、けろりとしてゐる。恥ぢるがいい。それが純粋な人間性だ、と僕も、かつては思つてゐた。僕は科学者だ。人間の官能を悉知してゐる。けれども僕は、断じて肉体万能論者ではない。バザロフなんて、甘いものさ。精神が、信仰が、人間の万事を
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