い。まさか、父ではなからう。浅草でわかれた、あの青年ではなかつたかしら。とにかく、霧中の記憶にすぎない。はつきり覚醒して、みると、病院の中である。「あなただけでも、強く生きるのだぞ。」その声が、ふと耳によみがへつて来て、ああ、あの人は死んだのだ、と冷くひとり首肯した。おのれの生涯の不幸が、相かはらず鉄のやうにぶあいそに膠着してゐる状態を目撃して、あたしは、いつも、かうなんだ、と自分ながら気味悪いほどに落ちついた。
 ドアの外で正服の警官がふたり見張りしてゐることをやがて知つた。どうするつもりだらう。忌《いま》はしい予感を、ひやと覚えたとき、どやどやと背広服着た紳士が六人、さちよの病室へはひつて来た。
「須々木が、ホテルで電話をかけたさうだね。」
「ええ。」あはれに微笑んで答へた。 
「誰にかけたか知つてるね?」
 うなづいた。
「そいつは?」
「わかい人でした。」
「名前さ。」
「存じません。」
 紳士たちの私語が、ひそひそ室内に充満した。
「まあ、いい。これからすぐ警視庁へ来てもらふ。歩けないことは、あるまい。」
 自動車に乗せられ、窓からちまたを眺めると、人は、寒さうに肩をすくめて
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