でも、ねえ。あの子を、いま田舎へかへすなんて、やつぱり、残酷よ。よく、そんなこと、言へるのね。あの子を国へかへしちやいけない。あなたは、あの子が、去年どんなことをしたか知つてるわね。どんなに笑はれたか、知つてゐるわね。東京は、いそがしくて、もう、そんなこと忘れたやうな顔してゐて呉れるけど、田舎は、うるさい。あの子は、きつと座敷牢よ。一生涯、村の笑はれもの。田舎の人つたら、三代まへに鶏ぬすまれたことだつて、ちやんと忘れずに覚えてゐて、にくしみ合つてゐるんだもの。」
「ちがふ。」高須は、落ちついて否定した。「ふるさとは、そんなものぢやない。肉親は、そんなものぢやない。僕は、ふるさとを失つた人の悲劇を知つてゐる。乙やんには、ふるさとが無かつた。君も、ごぞんじだらうと思ふが、乙やんは、僕の伯父の、おめかけの子だ。生みの母親と一緒に転々した。それは苦労した。僕は知つてゐる。あの人は、偉くなることに努めた。自分を捨てた父親を、見かへしてやらうと思つてゐた。ずば抜けて、秀才だつた。全く、すばらしかつたなあ。勉強もした。偉くならなければいけないと思つてゐたのだ。歴史に名を残さうと考へた。けれども、矢尽き、刀折れて、死ぬる前の日、僕に、親孝行しろ、と言つた。しのんで、しのんで、つつましく生きろ、と言つた。僕は、はじめ冗談か、と思つた。けれども、このごろになつて、あ、あ、と少しづつ合点できる。」
「いいえ、そんなんぢやない。」数枝は、なかなか譲らない。酔ひと興奮に頬を染めて、「あなたは、それでいいの。ご立派な御家庭に、なに不自由なくお育ちになつて、立派に学問もおありなさることだし、ちやんと御両親もそろつておいでのことでせうし、それは須々木乙彦でなくつたつて、あなたには、親孝行なさるやう、お家を大事になさるやう、誰だつて、しんからそれをおすすめするわ。だけど、あたしたちは、ちがふの。そんなんぢやない。一日一日、食つて生きてゆくことに追はれて、借銭かへすことに追はれて、正しいことを横目で見ながら、それに気がついてゐながら、どんどん押し流されてしまつて、いつのまにか、もう、世の中から、ひどい焼印《やきいん》、頂戴してしまつてゐるの。さちよなんか、もつとひどい。あの子は、もう世の中を、いちど失脚しちやつたのよ。屑《くづ》よ。親孝行なんて、そんな立派なこと、とても、とても、できなくなつてしまつた
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