なると、
「あなた、死ぬのね。」
「わかるか。」乙彦は、幽かに笑つた。
「ええ。あたしは、不幸ね。」やつと見つけたと思つたら、もうこの人は、この世のものでは、なかつた。
「あたし、くだらないこと言つてもいい?」
「なんだ。」
「生きてゐて呉れない? あたし、なんでもするわ。どんな苦しいことでも、こらへる。」
「だめなんだ。」
「さう。」このひとと一緒に死なう。あたしは、一夜、幸福を見たのだ。「あたし、つまらないこと言つたわね。軽蔑する?」
「尊敬する。」ゆつくり答へて、乙彦の眼に、涙が光つた。
 その夜、二人は、帝国ホテルの部屋で、薬品をのんだ。二人、きちんとソフアに並んで坐つたまま、冷くなつてゐた。深夜、中年の給仕人が、それを見つけた。察してゐたのである。落ちついて、その部屋から忍び出て、そつと支配人をゆり起した。すべて、静粛に行はれた。ホテル全体は、朝までひつそり眠つてゐた。須々木乙彦は、完全に、こと切れてゐた。
 女は、生きた。

        ☆

 高野さちよは、奥羽の山の中に生れた。祖先の、よい血が流れてゐた。曾祖父は、医者であつた。祖父は、白虎隊のひとりで、若くして死んだ。その妹が家督を継いだ。さちよの母である。気品高い、無表情の女であつた。養子をむかへた。女学校の図画の先生であつた。峠を越えて八里はなれた隣りのまちの、造り酒屋の次男であつた。からだも、心も、弱い人であつた。高野の家には、土地が少しあつた。女学校の先生をやめても、生活が、できた。犬を連れ、鉄砲をしよつて、山を歩きまはつた。いい画をかきたい。いい画家になりたい。その渇望が胸の裏を焼きこがして、けれども、弱気に、だまつてゐた。
 高野さちよは、山の霧と木霊《こだま》の中で、大きくなつた。谷間の霧の底を歩いてみることが好きであつた。深海の底といふものは、きつとこんなであらう、と思つた。さちよが、小学校を卒業したとしに、父は、ふたたび隣りのまちの女学校に復職した。さちよの学費を得るためであつた。さちよは、父のつとめてゐるその女学校に受験して合格した。はじめ、父とふたり、父の実家に寄宿して、毎朝一緒に登校してゐたのであるが、それでは教育者として、ていさいが悪いのではないか、と父の実家のものが言ひ出し、弱気の父は、それもさうだ、と一も二もなく賛成して、さちよは、その女学校の寮にいれられた。母は、
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