うん。眼がさめてみると、からつと晴れてゐるのは、うれしいからな。」数枝も、なんの気なしに、さう合槌うつて、朝の青空を思へば、やはり浮き浮きするのだが、それだけのことでも、ずいぶん楽しみにして寝る身がいとしく、さて、晴れたからとて、自分には、なんといふこともないのに、とひとりで笑ひたくなつて、蒲団を引きかぶり、眼尻から涙が、つとあふれて落ちて、おや、あくびの涙かしら、泣いてゐるのかしら、と流石にあわて、とにかく、この子が女優になるといふし、これは、ひとつ、後援会でも組織せずばなるまい。

        ☆

 成功であつた。劇団は、「鴎座。」劇場は、築地小劇場。狂言は、チエホフの三人姉妹。女優、高野幸代は、長女オリガを、見事に演じた。昭和六年三月下旬、七日間の公演であつた。青年、高須隆哉は、三日目に見に行つた。幕があく。オリガ、マーシヤ、イリーナの三人の姉妹が、舞台にゐる。やがて、オリガの独白がはじまる。はじめ低くて、聞えなかつた。青年は、暗い観客席の一隅で、耳をすました。とぎれ、とぎれに聞えて来る。
 ――あの日、寒かつたわね。雪が降つてゐたんだもの。――あたし、とても生きてゐられないやうな、――でも、もうあれから一年たつて、あたしたちもその時のことを、楽な気持で思ひ出せるやうになつたし、――(時計が十二時を打つ。)
 ゆつくり打つ舞台の時計の音を、聞いてゐるうちに青年は、急にきよろきよろしはじめて、ちえつ、ちえつと、二度もはげしく舌打して、それから、つと立つて廊下に出た。
 僕は、あんな女は好まない。僕は、あんな女を好かない。あいつは、所詮ナルシツサスだ。あの女は、謙虚を知らない。自分さへその気になつたら、なんでもできると思つてゐる。なぜ、あいつは、くにを飛び出し、女優なんかになつたのだらう。もう、あの様子では、須々木乙彦のことなんか、ちつとも、なんとも、思つてゐない。悪魔、でなければ、白痴だ。いやいや、女は、みんなあんなものなのかも知れない。よろこびも、信仰も、感謝も、苦悩も、狂乱も、憎悪も、愛撫も、みんな刹那だ。その場限りだ。一時期すぎると、けろりとしてゐる。恥ぢるがいい。それが純粋な人間性だ、と僕も、かつては思つてゐた。僕は科学者だ。人間の官能を悉知してゐる。けれども僕は、断じて肉体万能論者ではない。バザロフなんて、甘いものさ。精神が、信仰が、人間の万事を
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