れぬ仕末さ。さつきね、女中からあなたの来てゐることを聞いたんだ。呆然としたね。心臓が、ぴたと止つたね。夢では、ないか。」
 テエブルのむかふにひつそり坐つた小さいさちよの姿を、やさしく眺めて、
「僕は、ばかなことばかり言つてるね。それこそ歴史的だ。てれくさいんだよ。からだばかりわくわくして、どうにもならない。」ふと眼を落して、ビイルを、ひとりで注いで、ひとりで呑んだ。
「自信を、お持ちになつていいのよ。あたし、うれしいの。泣きたいくらゐ。」嘘は、なかつた。
「わかる。わかる。」歴史的は、あわてて、「でも、よかつた。くるしかつたらうね。いいんだ、いいんだ。僕は、なんでも、ちやんと知つてゐる。みんな知つてゐる。こんどの、あのことだつて、僕は、ちつとも驚かなかつた。いちどは、そこまで行くひとだ。そこをくぐり抜けなければ、いけないひとだ。あなたの愛情には、底がないからな。いや、感受性だ。それは、ちよつと驚異だ。僕は、ほとんど、どんな女にでも、いい加減な挨拶で応対して、また、それでちやうどいいのだが、あなたにだけは、それができない。あなたは、わかるからだ。油断ならない。なぜだらう。そんな例外は、ない筈なんだ。」
「いいえ。女は、」すすめられて茶呑茶碗のビイルをのんだ。「みんな利巧よ。それこそなんでも知つてゐる。ちやんと知つてゐる。いい加減にあしらはれてゐることだつて、なんだつて、みんな知つてゐる。知つてゐて、知らないふりして、子供みたいに、雌のけものみたいに、よそつてゐるのよ。だつて、そのはうが、とくだもの。男つて、正直ね。何もかも、まる見えなのに、それでも、何かと女をだました気で居るらしいのね。犬は、爪を隠せないのね。いつだつたかしら、あたしが新橋駅のプラツトフオームで、秋の夜ふけだつたわ、電車を待つてゐたら、とてもスマートな犬が、フオツクステリヤといふのかしら、一匹あたしの前を走つていつて、あたしはそれを見送つて、泣いたことがあるわ。かちかちかちかち、歩くたんびに爪の足音が聞えて、ああ犬は爪を隠せないのだ、と思つたら、犬の正直が、いぢらしくて、男つて、あんなものだ、と思つたら、なほのこと悲しくて、泣いちやつた。酔つたわよ。あたし、ばかね。どうして、こんなに、男を贔負《ひいき》するんだろ。男を、弱いと思ふの。あたし、できることなら、からだを百にして千にしてたくさんの男のひと
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