奇妙な、何か、感じませんか?」
 青年は、顔をあからめた。
「それごらん。」助七は、下唇を突き出し、にやと笑った。「やっぱりそうだ。だけど、あなたは、まだいい。たった一日だ。おれは、かれこれ、一年になります。三百六十五日。そうだ。あなたの三百六十五倍も、おれはあの女に苦しめられて来たのです。いや、あの女には、罪はない。それは、あのひとの知らないことだ。罪は、おれの下劣な血の中に在る。笑って呉《く》れ。おれは、あの女に勝ちたい。あの人の肉体を、完全に、欲しい。それだけなんだ。おれは、あの人に、ずいぶんひどく軽蔑されて来ました。憎悪されて来た。けれども、おれには、おれの、念願があるのだ。いまに、おれは、あの人に、おれの子供を生ませてやります。玉のような女の子を、生ませてやります。いかがです。復讐なんかじゃ、ないんだぜ。そんなけちなことは、考えていない。そいつは、おれの愛情だ。それこそ愛の最高の表現です。ああ、そのことを思うだけでも、胸が裂ける。狂うようになってしまいます。わかるかね。われわれ賤民のいうことが。」ねちねち言っているうちに、唇の色も変り、口角には白い泡がたまって、兇悪な顔にさえ見えて来た。「こんどの須々木乙彦とのことは、ゆるす。いちどだけは、ゆるす。おれは、いま、ずいぶんばかにされた立場に在る。おれにだって、それは、わかっています。はらわたが煮えくりかえるようだってのは、これは、まさしく実感だね。けれどもおれは、おれを軽蔑する女を、そんな虚傲《きょごう》の女を、たまらなく好きなんだ。蝶々のように美しい。因果だね。うんと虚傲になるがいい。どうです、これからも、あの女と、遊んでやって呉れませんか。それは、おれから、たのむのだ。卑屈からじゃない。おれは、もともと高尚な人間を、好きなんだ。讃美する。君は、とてもいい。素晴らしい。皮肉でも、いやみでも、なんでもない。君みたいないい人と、おとなしく遊んで居れば、だいじょうぶ、あいつは、もっと、か弱く、美しくなる。そいつは、たしかだ。」たらとよだれが、テエブルのうえに落ちて、助七あわててそれを掌で拭き消し、「あいつを、美しくして下さい。おれの、とても手のとどかないような素晴らしい女にして下さい。ね、たのむ。あいつには、あなたが、絶対に必要なんだ。おれの直感にくるいはない。畜生め。おれにだって、誇があらあ。おれは、地べたに落ちた柿なんか、食いたくねえのだ。」
 青年は陰鬱に堪えかねた。

         ☆

 さちよは、ふたたび汽車に乗った。須々木乙彦のことが新聞に出て、さちよもその情婦として写真まで掲載され、とうとう故郷の伯父が上京し、警察のものが中にはいり、さちよは伯父と一緒に帰郷しなければならなくなった。謂わば、廃残の身である。三年ぶりに見る、ふるさとの山川が、骨身に徹する思いであった。
「ねえ、伯父さん、おねがい。あたしは、これからおとなしくするんだから、おとなしくしなければならないのだから、あたしをあまり叱らないでね。まちのお友達とも、誰とも、顔を合せたくないの。あたしを、どこかへ、かくして、ね。あたし、なんぼでも、おとなしくしているから。」
 十二、三歳のむすめのように、さちよは汽車の中で、繰りかえし繰りかえし懇願した。親戚の間で、この伯父だけは、さちよを何かと不憫《ふびん》がっていた。伯父は、承諾したのである。故郷のまちの二つ手前の駅で、伯父とさちよは、こっそり下車した。その山間の小駅から、くねくね曲った山路を馬車にゆられて、約二十分、谷間の温泉場に到着した。
「いいか。当分は、ここにいろ。おれは、もう何も言わぬ。うちの奴らには、おれから、いいように言って置く。おまえも、もう、来年は、はたちだ。ここでゆっくり湯治《とうじ》しながら、よくよく将来のことを考えてみるがいい。おまえは、おまえの祖先のことを思ってみたことがあるか。おれの家とは、較べものにならぬほど立派な家柄である。おまえがもし軽はずみなことでもして呉れたなら、高野の家は、それっきり断絶だ。高野の血を受け継いで生きているのは、いいか、おまえひとりだ。家系は、これは、大事にしなければいけないものだ。いまにおまえにも、いろいろあきらめが出て来て、もっと謙遜《けんそん》になったとき、家系というものが、どんなに生きることへの張りあいになるか、きっとわかる。高野の家を興《おこ》そうじゃないか。自重しよう。これは、おれからのお願いだ。また、おまえの貴い義務でもないのか。多くは無いが、おまえが一家を創生するだけの、それくらいの財産は、おれのうちで、ちゃんと保管してあります。東京での二年間のことは、これからのおまえの生涯に、かえって薬になるかも知れぬ。過ぎ去ったことは、忘れろ。そういっても、無理かも知れぬが、しかし人間は、何か一つ触れてはならぬ深い傷を背負って、それでも、堪えて、そ知らぬふりして生きているのではないのか。おれは、そう思う。まあ、当分、静かにして居れ。苦痛を、何か刺戟で治そうとしてはならぬ。ながい日数が、かかるけれども、自然療法がいちばんいい。がまんして、しばらくは、ここに居れ。おれは、これから、うちへ帰って、みなに報告しなければいけない。悪いようには、せぬ。それは、心配ない。お金は、一銭も置いて行かぬ。買いたいものが、あるなら、宿へそう言うがいい。おれから、宿のひとに頼んで置く。」
 さちよは、ひとり残された。提燈《ちょうちん》をもって、三百いくつの石の段々を、ひい、ふう、みい、と小声でかぞえながら降りていって、谷間の底の野天風呂にたどりつき、提燈を下に置いたら、すぐ傍を滔々《とうとう》と流れている谷川の白いうねりが見えて、古い水車がぼっと鼻のさきに浮んだ。疲れていた。ひっそり湯槽《ゆぶね》にひたっていると、苦痛も、屈辱も、焦躁も、すべて薄ぼんやり霞《かす》んでいって、白痴のようにぽかんとするのだ。なんだか、恥ずかしい身の上になっていながら、それでもばかみたいに、こんなにうっとりしているということは、これは、あたしの敗北かも知れないけれど、人は、たまには、苦痛の底でも、うっとりしていたって、いいではないか。水車は、その重そうなからだを少しずつ動かしていて、一むれの野菊の花は提燈のわきで震えていた。
 このまま溶けてしまいたいほど、くたくたに疲れ、また提燈持って石の段々をひとつ、ひとつ、のぼって部屋へかえるのだ。宿は、かなり大きかった。まっ暗い長い廊下に十いくつもの部屋がならび、ところどころの部屋の障子《しょうじ》が、ぼっと明るく、その部屋部屋にだけは、客のいることが、わかるのだ。一ばんめの部屋は暗く、二ばんめの部屋も暗く、三ばんめの部屋は明るく、障子がすっとあいて、
「さっちゃん。」
「どなた?」おどろく力も失っていた。
「ああ、やっぱりそうだ。僕だよ。三木、朝太郎。」
「歴史的。」
「そうさ。よく覚えているね。ま、はいりたまえ。」三木朝太郎は三十一歳、髪の毛は薄くなっているけれども、派手な仕事をしていた。劇作家である。多少、名前も知られていた。
「おどろきだね。」
「歴史的?」
 三木朝太郎は苦笑した。歴史的と言うのがかれの酔っぱらったときの口癖であって、銀座のバアの女たちには、歴史的さんと呼ばれていた。
「まさに、歴史的だ。まあ、坐りたまえ。ビイルでも呑むか。ちょっと寒いが、君、湯あがりに一杯、ま、いいだろう。」
 歴史的さんの部屋には、原稿用紙が一ぱい散らばって、ビイル瓶《びん》が五、六本、テエブルのわきに並んでいた。
「こうして、ひとりで呑んでは、少しずつ仕事をしているのだが、どうもいけない。どんな奴でも、僕より上手なような気がして、もう、だめだね、僕は。没落だよ。この仕事が、できあがらないことには、東京にも帰れないし、もう十日以上も、こんな山宿に立てこもって七転八苦、めもあてられぬ仕末さ。さっきね、女中からあなたの来ていることを聞いたんだ。呆然《ぼうぜん》としたね。心臓が、ぴたと止ったね。夢では、ないか。」
 テエブルのむこうにひっそり坐った小さいさちよの姿を、やさしく眺めて、
「僕は、ばかなことばかり言ってるね。それこそ歴史的だ。てれくさいんだよ。からだばかりわくわくして、どうにもならない。」ふと眼を落して、ビイルを、ひとりで注いで、ひとりで呑んだ。
「自信を、お持ちになっていいのよ。あたし、うれしいの。泣きたいくらい。」嘘は、なかった。
「わかる。わかる。」歴史的は、あわてて、「でも、よかった。くるしかったろうね。いいんだ、いいんだ。僕は、なんでも、ちゃんと知っている。みんな知っている。こんどの、あのことだって、僕は、ちっとも驚かなかった。いちどは、そこまで行くひとだ。そこをくぐり抜けなければ、いけないひとだ。あなたの愛情には、底がないからな。いや、感受性だ。それは、ちょっと驚異だ。僕は、ほとんど、どんな女にでも、いい加減な挨拶で応対して、また、それでちょうどいいのだが、あなたにだけは、それができない。あなたは、わかるからだ。油断ならない。なぜだろう。そんな例外は、ない筈《はず》なんだ。」
「いいえ。女は、」すすめられて茶呑茶碗のビイルをのんだ。「みんな利巧よ。それこそなんでも知っている。ちゃんと知っている。いい加減にあしらわれていることだって、なんだって、みんな知っている。知っていて、知らないふりして、子供みたいに、雌《めす》のけものみたいに、よそっているのよ。だって、そのほうが、とくだもの。男って、正直ね。何もかも、まる見えなのに、それでも、何かと女をだました気で居るらしいのね。犬は、爪を隠せないのね。いつだったかしら、あたしが新橋駅のプラットフォームで、秋の夜ふけだったわ、電車を待っていたら、とてもスマートな犬が、フォックステリヤというのかしら、一匹あたしの前を走っていって、あたしはそれを見送って、泣いたことがあるわ。かちかちかちかち、歩くたんびに爪の足音が聞えて、ああ犬は爪を隠せないのだ、と思ったら、犬の正直が、いじらしくて、男って、あんなものだ、と思ったら、なおのこと悲しくて、泣いちゃった。酔ったわよ。あたし、ばかね。どうして、こんなに、男を贔負《ひいき》するんだろ。男を、弱いと思うの。あたし、できることなら、からだを百にして千にしてたくさんの男のひとを、かばってやりたいとさえ思うわ。男は、だって、気取ってばかりいて可哀そうだもの。ほんとうの女らしさというものは、あたし、かえって、男をかばう強さに在ると思うの。あたしの父は、女はやさしくあれ、とあたしに教えていなくなっちゃったけれど、女のやさしさというものは、――」言いかけて、ものに驚いた鹿のように、ふっと首をもたげて耳をすまし、
「誰が来るわ。あたしを隠して。ちょっとでいいの。」にっと笑って、背後の押入れの襖《ふすま》をあけ、坐りながらするするからだを滑り込ませ、
「さあさ、あなたは、お仕事。」
「よし給え。それも女の擬態《ぎたい》かね?」歴史的は、流石《さすが》に聡明な笑顔であった。「この部屋へ来る足音じゃないよ。まあ、いいからそんな見っともない真似はよしなさい。ゆっくり話そうじゃないか。」自分でも、きちんと坐り直してそう言った。痩せて小柄な男であったが、鉄縁の眼鏡の底の大きい眼や、高い鼻は、典雅な陰影を顔に与えて、教養人らしい気品は、在った。
「あなた、お金ある?」押入れのまえに、ぼんやり立ったままで、さちよは、そんなことを呟《つぶや》いた。
「あたし、もう、いやになった。あなたを相手に、こんなところで話をしていると、死ぬるくらいに東京が恋しい。あなたが悪いのよ。あたしの愛情が、どうのこうのと、きざに、あたしをいじくり廻すものだから、あたし、いいあんばいに忘れていた。あたしの不幸、あたしの汚なさ、あたしの無力、みんな一時に思い出しちゃった。東京は、いいわね。あたしより、もっと不幸な人が、もっと恥ずかしい人が、お互い説教しないで、笑いながら生きているのだもの。あたし、まだ、十九よ。あきらめ切ったエゴの中で、とても、冷
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