たちには、歴史的さんと呼ばれていた。
「まさに、歴史的だ。まあ、坐りたまえ。ビイルでも呑むか。ちょっと寒いが、君、湯あがりに一杯、ま、いいだろう。」
歴史的さんの部屋には、原稿用紙が一ぱい散らばって、ビイル瓶《びん》が五、六本、テエブルのわきに並んでいた。
「こうして、ひとりで呑んでは、少しずつ仕事をしているのだが、どうもいけない。どんな奴でも、僕より上手なような気がして、もう、だめだね、僕は。没落だよ。この仕事が、できあがらないことには、東京にも帰れないし、もう十日以上も、こんな山宿に立てこもって七転八苦、めもあてられぬ仕末さ。さっきね、女中からあなたの来ていることを聞いたんだ。呆然《ぼうぜん》としたね。心臓が、ぴたと止ったね。夢では、ないか。」
テエブルのむこうにひっそり坐った小さいさちよの姿を、やさしく眺めて、
「僕は、ばかなことばかり言ってるね。それこそ歴史的だ。てれくさいんだよ。からだばかりわくわくして、どうにもならない。」ふと眼を落して、ビイルを、ひとりで注いで、ひとりで呑んだ。
「自信を、お持ちになっていいのよ。あたし、うれしいの。泣きたいくらい。」嘘は、なかった。
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