うことは、これは、あたしの敗北かも知れないけれど、人は、たまには、苦痛の底でも、うっとりしていたって、いいではないか。水車は、その重そうなからだを少しずつ動かしていて、一むれの野菊の花は提燈のわきで震えていた。
 このまま溶けてしまいたいほど、くたくたに疲れ、また提燈持って石の段々をひとつ、ひとつ、のぼって部屋へかえるのだ。宿は、かなり大きかった。まっ暗い長い廊下に十いくつもの部屋がならび、ところどころの部屋の障子《しょうじ》が、ぼっと明るく、その部屋部屋にだけは、客のいることが、わかるのだ。一ばんめの部屋は暗く、二ばんめの部屋も暗く、三ばんめの部屋は明るく、障子がすっとあいて、
「さっちゃん。」
「どなた?」おどろく力も失っていた。
「ああ、やっぱりそうだ。僕だよ。三木、朝太郎。」
「歴史的。」
「そうさ。よく覚えているね。ま、はいりたまえ。」三木朝太郎は三十一歳、髪の毛は薄くなっているけれども、派手な仕事をしていた。劇作家である。多少、名前も知られていた。
「おどろきだね。」
「歴史的?」
 三木朝太郎は苦笑した。歴史的と言うのがかれの酔っぱらったときの口癖であって、銀座のバアの女
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