、ふたたび不気嫌である。「それは、ね、あたしだって、くさくさすることは、あるさ。この子は、いつまでもここにいて、いったいどうするつもりだろうと、さちよの図々しさが憎くなることもあるよ。でも、あたしは、ひとつことを三分《さんぷん》以上かんがえないことに、昔からきめているの。めんどうくさい。どんなに永く考えたって、結局は、なんのこともない。あたってみなければ判らないことばかりなんだからね。あほらしい。あたしにだって、心配なことが、それは、たくさんあるのよ。だから、一つのことは、三分だけ考えて、解決も何もおかまいなしに、すぐつぎに移って、そいつを三分間だけ考えて、また、つぎのことを三分、そのへんは、なかなか慣れたものよ。心配のたねの引き出しを順々にあけて、ちらと一目《ひとめ》調べてみて、すぐにぴたっとしめて、そうして、眠るの。これ、なかなか健康にいいのよ。どうだい、あたしにだって、相当の哲学があるだろう。」
「ありがとう。数枝。あなたは、いいひとね。」
 数枝は、てれて、わざと他のことを言った。
「やんだね、みぞれが。」
「ええ。」さちよは、言いたいだけ言って、あとは無心であった。「あした、お天気だといいわね。」
「うん。眼がさめてみると、からっと晴れているのは、うれしいからな。」数枝も、なんの気なしに、そう合槌《あいづち》うって、朝の青空を思えば、やはり浮き浮きするのだが、それだけのことでも、ずいぶん楽しみにして寝る身がいとしく、さて、晴れたからとて、自分には、なんということもないのに、とひとりで笑いたくなって、蒲団を引きかぶり、眼尻から涙が、つとあふれて落ちて、おや、あくびの涙かしら、泣いているのかしら、と流石《さすが》にあわて、とにかく、この子が女優になるというし、これは、ひとつ、後援会でも組織せずばなるまい。

         ☆

 成功であった。劇団は、「鴎座。」劇場は、築地小劇場。狂言は、チエホフの三人姉妹。女優、高野幸代は、長女オリガを、見事に演じた。昭和六年三月下旬、七日間の公演であった。青年、高須隆哉は、三日目に見に行った。幕があく。オリガ、マーシャ、イリーナの三人の姉妹が、舞台にいる。やがて、オリガの独白がはじまる。はじめ低くて、聞えなかった。青年は、暗い観客席の一隅で、耳をすました。とぎれ、とぎれに聞えて来る。
 ――あの日、寒かったわね。雪が降
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