たのね。歯がゆくって、仕方がない。お互い、それに気がついて、笑い合ってやり直せば、――幸福なんだがなあ。世の中は、きっと住みよくなるだろうに。」
「ああ、学問をした。」数枝は、ことさらに大げさなあくびをした。「それで、須々木乙彦は、よかったのかね。」
 数枝の無礼を、気にもかけず、
「あのひと、ね、おかしいのよ。とても、子供みたいな、へんな顔をして、僕は、乳房って、おふくろにだけあるものだと思っていた、というのよ。それが、ちっとも、気取りでも、なんでもないの。恥ずかしそうにしていたわ。ああ、この人、ずいぶん不幸な生活して来た人なんだな、と思ったら、あたし、うれしいやら、有難いやら、可愛いやら、胸が一ぱいになって、泣いちゃった。一生、この人のお傍にいよう、と思った。永遠の母親、っていうのかしら。私まで、そんな尊いきれいな気持になってしまって、あのひと、いい人だったな。あたしは、あの人の思想や何かは、ちっとも知らない。知らなくても、いいんだ。あの人は、あたしに自信をつけてくれたんだ。あたしだって、もののお役に立つことができる。人の心の奥底を、ほんとうに深く温めてあげることができると、そう思ったら、もう、そのよろこびのままで、死にたかった。でも、こんなに、まるまるとふとって生きかえって来て、醜態ね。生きかえって、こんなに一日一日おなじ暮しをして、それでいいのかしらと、たまらなく心細いことがあるわ。大声で叫び出したく思うことがあるの。どうせいちど死んだ身なんだし、何でもいい、人のお役に立てるものなら立ってあげたい。どんな、つらいことでも、どんな、くるしいことでも、こらえる。」そっと頭をもたげて、「ねえ、数枝。聞いているの? 歴史的さんね、あのひと、あたし、そんなに悪いひとじゃないと思うわ。あのひと、あたしを女優にするんだと、ずいぶん意気込んでいるんだけれど、どんなものだろうねえ、数枝だって、あたしがいつまでも、ここで何もせずに居候《いそうろう》していたら、やっぱり、気持が重いでしょう? また、あたしが女優になって、歴史的さんがそれで張り合いのあるお仕事できるようなら、あたし、女優になっても、いいと思うの。あたしがその気になりさえすれば、あとは、手筈《てはず》が、ちゃんときまっているんだって、そう言っていたわ。」
「おまえの好きなようにするさ。名女優になれるだろうよ。」数枝は
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