っていたんだもの。――あたし、とても生きていられないような、――でも、もうあれから一年たって、あたしたちもその時のことを、楽な気持で思い出せるようになったし、――(時計が十二時を打つ。)
 ゆっくり打つ舞台の時計の音を、聞いているうちに青年は、急にきょろきょろしはじめて、ちえっ、ちえっと、二度もはげしく舌打して、それから、つと立って廊下に出た。
 僕は、あんな女は好まない。僕は、あんな女を好かない。あいつは、所詮ナルシッサスだ。あの女は、謙虚を知らない。自分さえその気になったら、なんでもできると思っている。なぜ、あいつは、くにを飛び出し、女優なんかになったのだろう。もう、あの様子では、須々木乙彦のことなんか、ちっとも、なんとも、思っていない。悪魔、でなければ、白痴だ。いやいや、女は、みんなあんなものなのかも知れない。よろこびも、信仰も、感謝も、苦悩も、狂乱も、憎悪も、愛撫も、みんな刹那《せつな》だ。その場限りだ。一時期すぎると、けろりとしている。恥じるがいい。それが純粋な人間性だ、と僕も、かつては思っていた。僕は科学者だ。人間の官能を悉知《しっち》している。けれども僕は、断じて肉体万能論者ではない。バザロフなんて、甘いものさ。精神が、信仰が、人間の万事を決する。僕は、聖母受胎をさえ、そのまま素直に信じている。そのために、科学者としての僕が、破産したって、かまわない。僕は、純粋の人間、真正の人間で在りさえすれば、――
 などとあらぬ覚悟を固めたりしはじめて、全身、異様な憤激にがくがく震え、寒い廊下を大胯《おおまた》で行きつ戻りつ、何か自分が、いま、ひどい屈辱を受けているような、世界のひとみんなからあざ笑われているような、いても立っても居られぬ気持で、こんなときに乙やんが生きていたらな、といまさらながら死んだ須々木乙彦がなつかしく、興奮がそのままくるりと裏返って悲愁|断腸《だんちょう》の思いに変じ、あやうく落涙しそうになって、そのとき、
「よう、」と肩を叩いたのは、助七である。「あなたは、初日を見なかったね?」
 ――あたし、あなたの心持が、よくわかってよ、マーシャ。さちよのオリガが、涙声でそういうのが、廊下にまで聞えて来る。
「素晴らしいね。」助七は、眼を細めて、「初日の評判、あなた新聞で読まなかったんですか? センセーション。大センセーション。天才女優の出現。ああ、
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