「助七。あたしは、おまえと一緒にいる。どんなことがあっても離れない。」
「よせやい。」助七は、めずらしくきびしい顔つきで、そう言った。「おれは、それほどばかじゃない。」つと立って、青年のあとを追った。
「君、君。」新富座のまえで、やっと追いついた。「話したいことがあるのだがねえ。」
 青年は、振りかえって、
「僕は、あなたを憎んでいません。好きです。」
「まあ、そう言うな。」にやにやして言ったのであるが、青年の、街路樹の下にすらと立っている絵のように美しい姿を見て、流石《さすが》にぐっと真面目になった。いい男だなあ、と思った。「すこし、君に、話したいことがあるのだけれど、なに、ちょっとでいいのです。つき合って呉れませんか。おれだって、――」言い澱《よど》んで、「君を好きです。」
 三好野《みよしの》へはいった。
「須々木乙彦、というのは、あなたの親戚なんですってね?」あなた、といったり、君といったり、助七は、秩序がなかった。
「いとこですが。」青年は、熱い牛乳を啜《すす》っていた。朝から、何もたべていなかった。
「どんな男です。」真剣だった。
「僕の、僕たちの、――」青年は、どもった。
「英雄ですか?」助七は、苦笑した。
「いいえ。愛人です。いのちの糧《かて》です。」
 その言葉が、助七を撃った。
「ああ、それはいい。」貧苦より身を起し、いままで十年間、こんな純粋の響の言葉を、聞いたことがなかった。「おれは、ことし二十八だよ。十七のとしから給仕をして、人を疑うことばかり覚えて来た。君たちは、いいなあ。」絶句した。
「ポオズですよ、僕たちは。」青年の左の眼は、不眠のために充血していた。「でも、ポオズの奥にも、いのちは在る。冷い気取りは、最高の愛情だ。僕は、須々木さんを見て、いつも、それを感じていました。」
「おれだって、いのちの糧を持っている。」
 低くそう言って、へんに親しげに青年の顔をしげしげ眺めた。
「存じて居ります。」
「一言もない。おれは、もともと賤民《せんみん》さ。たかだか一個の肉体を、肉体だけを、」言いかけてふっと口を噤《つぐ》み、それからぐっと上半身を乗り出させて、「あなたは、あの女を、どう思いますか?」
「気の毒な人だと思っています。」用意していたのではないかと思われるほど、涼しく答えた。
「それだけですか? いや、ここだけの話ですけれども、ね。
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