の、……」
すこしお世辞が過ぎたのに気づいて下僚は素早く話頭を転ずる。
「きょうの録音は、いつ放送になるんです?」
「知らん」
知っているのだけれども、知らんと言ったほうが人物が大きく鷹揚《おうよう》に見える。彼は、きょうの出来事はすべて忘れたような顔をして、のろのろと執務をはじめる。
「とにかく、あの放送は、たのしみだなあ」
下僚は、なおも小声でお世辞を言う。しかし、この下僚は、少しも楽しみだと思っていないし、実際その放送の夜には、カストリという奇妙な酒を、へんな屋台で飲み、ちょうど街頭討論放送の時刻に、さかんにげえげえゲロを吐いている。楽しみも何もあったものでない。
たのしみにしているのは、れいのあの役人と、その家族である。
いよいよ今夜は、放送である。役人は、その日は、いつもより一時間ほど早く帰宅する。そうして街頭録音の放送の三十分くらい前から家族全部、緊張して受信機の傍に集る。
「いまに、この箱から、お父さんのお声が聞えて来ますよ」
夫人は末の小さいお嬢さんをだっこして、そう教えている。
中学一年の男の子は、正坐して、そうしてきちんと両手を膝《ひざ》に置き、実に行
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